池井昌樹「眠れる旅人**」(「現代詩手帖」2007年09月号)
4篇詩を書いている。その4篇目の詩「落日」がいままでの池井の詩とは印象が違う。
無数のいのちとつながっている。生きることは血のリレー。これは池井が繰り返し書いていることである。父と母を「喰ってきた」。それは抽象的な比喩ではない。池井にとっては「事実」である。そうした「事実」のはてに、
この2行がいままでの池井を超越している。
沈むのは太陽(夕陽)である--というのは地球と基本にした見方であって、ほんとうは地球が太陽のまわりを動いていて、そのために夕陽が沈んでいくと見えるだけだ、ということは誰もが知っている。動かないものが中心にあり、それを地球がまわっている。沈んでいくとしたら、それは地球なのだ。--そう言い換えると、ちょっと論理の「比喩」になってしまう。池井は、そういう「論理」を好まない。一気に宇宙と融合する。「地球」に「ゆうひ」とルビを打ってしまう。
「地球」と「ゆうひ」を一体化(融合)させてしまう。その一体化のなかに、地球と太陽の実際の運動と見かけの運動をとけこませ、区別するのをやめてしまう。
あらゆる存在はそれぞれ「関係」を持っている。親は子供を育てる。子供は親を育てる、ということもある。相互依存。そうした相互依存を、完全に溶け込ませてしまう。「相互」という区別をなくしてしまう。
「関係」などというものは、どこにもない。そんなものは「見かけ」にすぎない。あるのはすべてが融合し、一体になった「宇宙」だけである。その宇宙の、中心でも、端っこでもなく、ただ広がりそのものとして、池井は「放心」する。
池井にとっては、あらゆるものは「関係」を解き放たれて、ただそこに存在する。そうして、そこに存在するということだけで、宇宙そのものと「放心」のなかで共鳴しているのだ。
すごい人生だ。「いい人生だ」という以外に、ほかにことばはない。
4篇詩を書いている。その4篇目の詩「落日」がいままでの池井の詩とは印象が違う。
いい人生だ
魚鳥や獣(けもの)
いたいけな
いくたのいのち
すききらいなく喰ってきた
ここだけのはなし
ちちとははまで喰ってきた
あますところなく喰ってきた
おもいのこしたなにもない
けれどもときにおもうのだ
にこにこわらってくれたもの
わらってゆるしてくれたもの
ぼくによくにたものたちの
あのやさしさとほほえみを
たべられるものたべるもの
魚鳥や獣
いたいけな
いくたのいのち
ちちとはは
ちまみれな地球(ゆうひ)がひとつ
いましずむ
いい人生だ
無数のいのちとつながっている。生きることは血のリレー。これは池井が繰り返し書いていることである。父と母を「喰ってきた」。それは抽象的な比喩ではない。池井にとっては「事実」である。そうした「事実」のはてに、
ちまみれな地球(ゆうひ)がひとつ
いましずむ
この2行がいままでの池井を超越している。
沈むのは太陽(夕陽)である--というのは地球と基本にした見方であって、ほんとうは地球が太陽のまわりを動いていて、そのために夕陽が沈んでいくと見えるだけだ、ということは誰もが知っている。動かないものが中心にあり、それを地球がまわっている。沈んでいくとしたら、それは地球なのだ。--そう言い換えると、ちょっと論理の「比喩」になってしまう。池井は、そういう「論理」を好まない。一気に宇宙と融合する。「地球」に「ゆうひ」とルビを打ってしまう。
「地球」と「ゆうひ」を一体化(融合)させてしまう。その一体化のなかに、地球と太陽の実際の運動と見かけの運動をとけこませ、区別するのをやめてしまう。
あらゆる存在はそれぞれ「関係」を持っている。親は子供を育てる。子供は親を育てる、ということもある。相互依存。そうした相互依存を、完全に溶け込ませてしまう。「相互」という区別をなくしてしまう。
「関係」などというものは、どこにもない。そんなものは「見かけ」にすぎない。あるのはすべてが融合し、一体になった「宇宙」だけである。その宇宙の、中心でも、端っこでもなく、ただ広がりそのものとして、池井は「放心」する。
池井にとっては、あらゆるものは「関係」を解き放たれて、ただそこに存在する。そうして、そこに存在するということだけで、宇宙そのものと「放心」のなかで共鳴しているのだ。
すごい人生だ。「いい人生だ」という以外に、ほかにことばはない。