詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

笹田満由『閨房詩篇』

2007-08-11 23:19:24 | 詩集
 笹田満由『閨房詩篇』(書肆山田、2007年08月10日発行)
 「天使」ということばが何度も登場する。タイトルにも登場する。そして「闇」も何度も登場する。「堕胎」という作品の全行。

闇の中に
乱暴な
手が現れて

強引に
肉を脱がし
剥奪していったが
ごらん

残されたのは天使
これが
闇の正体

 「天使」と「闇」はどこかでつながっている。笹田は、その具体的なつながりを語ろうとしていない。
 なぜか。
 緊密に結びつきすぎていて、天使と闇の距離を測れないからである。それは笹田が自分を天使と感じており、同時に笹田自身を闇だと感じているからである。天使と闇が、表裏となっているからである。二つのあいだには距離がないのだ。
 天使になろうとしても、かならず闇がついてくる。闇になろうとしても天使が放してくれない。
 この不思議な苦悩を、笹田は、語るというよりは、感じさせようとしている。説明するのではなく、説明を拒否して、そこに天使でも闇でもないものがあると感じさせようと試みている。受け止めてほしいのだ。読者のなかで、笹田の天使と闇とが解き放たれ、そして再び結びついてくれることを願っている。--つまり、読者が「笹田」になってくれること、同質(?)の人間になってくれることを願っている。
 天使と闇とが深く結びついたとき、たとえば「薔薇」は次のように見える。

命がまだ
肌というなら
わたしに
下さい

目覚めたとき
泪のあとを
追って行かぬよう

流れる血が
闇から
あふれるまで

 薔薇とは、命と肌と泪と血と闇が一体になったものである。
 そんなふうにして、天使と闇とが深く結びついた目で存在を眺めるとき、あらゆるものが何かと何かが深く結びついた形であらわれてくる。区別のつかないものとしてあらわれてくる。
 これを「抒情」と呼んでもいいかもしれない。
 抒情とは、説明するもの、納得するものではなく、ただ感じるものだ。



 河津聖恵が笹田の「天使性」について「しおり」でていねいに書いている。


コメント
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