詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『溶ける、目覚まし時計』(2)

2007-08-23 06:44:21 | 詩集
  北川透溶ける、目覚まし時計』(思潮社、2007年07月25日発行)
                  (23日の「日記」のつづき)
 文法は新しい文法の確立によって破壊するしかない。ということは、ことばでは簡単にいえるけれど(これがことばの便利で、いいかげんなところ)、実際には「新しい文法」はどこにあるのだろうか。
 たとえば「天狗ちゃんと目覚まし時計」の書き出し。(引用にあたっては1行あたりの文字数を無視した。)

 そこはわたしの住む港町のマンションの一室のようでもあり、これまでに行ったことのない海辺のホテルの一室のようでもありました。

 冒頭の「そこ」。指示代名詞。これは「新しく」はできない。指示代名詞に関しては、北川はほとんど無警戒である。「文法」どおりにつかっている。

後ろ向きに抱かれた目覚まし時計は、こんなところでは嫌よ、と言いながらも、気持ちよさそうに時を刻んでいるのです。目覚まし時計が嫌がっているのは、そこが破れ目の見える古いソファーの上田からでした。この部屋にはソファー以外にテーブルもベッドも何も置いてないのです。(略)その額縁に、充血した眼を持った茶色っぽい蠅がとまっていたのでした。どうやらその汚い蠅がわたしのようでした。

 「こんな」「そこ」「この」「その」「その」。次々に出てくる指示代名詞は、先に登場した「もの」を指し示している。(冒頭の「そこ」は例外的に先行することばを持たないが、これは倒置法であり、倒置法も文法のひとつ。)指示代名詞が指し示しているものは、すべてわかるように書かれている。
 では、ここでは北川は何をしているのか。何を試みている。
 指示代名詞をつかいながら、ずるずると視点をずらしていく、ということを試みている。2-3回ずらすのではなく、一段落のなかはずーっと、その指示代名詞によって先行するものの印象をひきずりながらも、存在そのものをあいまいにし、新しい存在に視点を移す--そのスムーズな移動を試みている。指示代名詞によって、そのスピードを加速させる。
 「主語」さえも、いつのまにか「蠅」になってしまっている。主語は、「蠅」以前には登場して来ないが、登場した瞬間「主語」になってしまった、という「夢」以外では起きないような視点の移動である。
 「夢」とはたしかに、何かが先行し、それを追いかけイメージが少しずつずれていく。なぜずれるのかわからないが、最初の主題が加速度的に変化していく。この感じを、北川は2連目で定着させる。

 何がくるっているというわけでもなく、世界がこわれているというわけでもなく、すべてが流れているのでした。

 指示代名詞による「流れ」(流動)。北川は夢の流動を描ききる文体をつくりだしているのである。
 3連目はさらに加速する。

 その時、ウン、「その時」ってベンリ、ベンリ、どんな奇蹟が起こってもふしぎじゃないもんね。マサニソノトキ、海面をドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド……と、一筋の線でもなく、刃でもなく、そのどちらでもあるような文字が走りました。

 ここにも「その」という指示代名詞が活躍している。「その」という指示代名詞があることで、「夢」の、先行するイメージを追いかけながら、なおかつ制御のきかないどこかへイメージが疾走してしまうという感じが強烈になる。「その」という指示代名詞があるからこそ「ドドドドド……」という強烈なイメージが存在し得る。

 「新しい文法」はある意味では「新しくない」。それは「新しい」というより徹底して鍛えられた「文体」と言い換えた方がいいかもしれない。鍛えられた文体が、既存の「文法」をひっぱりまわし、ことばを従来の在り方から解き放つのである。ことばの解放--そこに北川の「詩」があるのだと思う。


コメント
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