伊藤悠子『道を 小道を』(再び)(ふらんす堂、2007年07月25日発行)
「これを」という作品の書き出し。
海辺のバス停。バスが来るまでのあいだ見かけたものをただ描写しているだけのようだが、とても美しい。こんなに美しいのは、きのうの繰り返しになってしまうが、こうした風景(洗濯ばさみが壊れて半分路上に転がっているという風景)を伊藤が何度も何度も見てきたからであろう。私も何度か見たことがある。そして、伊藤と私の違いは、伊藤はその見た風景を何度も何度もことばにしてきた、ということだ。書くとか、誰かに話すというのではなく、伊藤自身のなかで、何度もことばにしてみたのだ。描写してみたのだ。だからこそ、
という簡潔で、しかもリズムがあって、なおかつそのリズムの中に「時間」そのものがあるという美しいことばになるのだ。
私は「抒情」というものが嫌いだったが、伊藤の詩を読んで、ああ、やっぱり詩の基本は「抒情」にあるのだ、と思ってしまう。
この悲しさは、伊藤にしか書けない抒情だ。
洗濯ばさみの破片を露草の花と勘違いしたという抒情なら、たぶん入沢康夫なら書ける。露草の花と見間違え、そこから別の世界へと進んでいくという詩なら入沢康夫には書けるだろう。(そういう詩なら、入沢康夫は書くだろう、という意味である。)しかし、伊藤は洗濯ばさみの破片、車にひかれて、砕けた破片を露草とは見間違えない。絶対に、見間違えない。なぜか。何度も何度もそういう風景を見てきたからだ。そして、何度も何度も、それを「露草」と見間違えてきたからだ。あきるほど見間違えてきた。だから、今は絶対に見間違えない。
「見まがうことはない」という静かなことばの奥には、悲しい悲しい抒情がひっそりと呼吸をしているのである。
この呼吸を大切にしたまま、詩は静かに進む。
突然、涙がこみ上げてきて、私はびっくりしてしまった。
青い洗濯ばさみの破片が草むらに落ちているのを見て、伊藤は何度も何度もそれを露草と見間違えてきた。わかっていても、繰り返し繰り返し、見間違えてきた。その繰り返しの果てに、もうそれを露草と見紛うことはないと自分に言い聞かせている。
その伊藤の前に、突然、つまらないもの(大人から見て、つまらないもの)を、とても美しいものに見間違える子供があらわれる。小さな貝殻。それは何? 子供には父への大切なお土産。子供は、それを本当に宝物と見間違えているのだ。--そのときの、見間違えるこころの美しさ。純粋さ。つまらないものを美しいもの、世界でたったひとつのものと見間違える「能力」というものが、どこかにある。そして、それを大人になった伊藤は失ってしまったが、ふいに、子供によって教えられるのだ。
どきっ、とする。そして、涙があふれてくる。
伊藤は、それを子供が発見したとは書いていない。海がそっと「これを と」子供に教えてくれて、その声を子供が聞いて、貝殻を広い握りしめていると書いている。
自然は非情だ。人間のこころなんかまったく気にしない。貝殻なんてつまらないもの、という大人のこころなんか気にしない。そして、そういう大人のこころを無視して、純粋な子供にだけ語りかけたのだ。これをお土産にするといいよ。お父さんが喜ぶよ、と。子供はその声を聞いて、ただ従っている。貝殻を宝物だと信じている。
ほんとうは何も知らない子供ではなく、何もかも知っている大人、伊藤こそが貝殻を宝物と見間違えなければならないのだ。そういうこころを取り戻さなくてはならないのだ。--そういう悲しみ。その瞬間の抒情。
とてもいい詩集だ。
「これを」という作品の書き出し。
陽が弱まると 急に
風の温度は下がり
海の色が深くなった
バス停の路上に
青い洗濯ばさみの片割れが転がっている
海草を干す際に使われていたが
これから後は
砕かれていく
散らばっていく
丈低い草の中にとどまっても
それを露草と見まがうことはない
海辺のバス停。バスが来るまでのあいだ見かけたものをただ描写しているだけのようだが、とても美しい。こんなに美しいのは、きのうの繰り返しになってしまうが、こうした風景(洗濯ばさみが壊れて半分路上に転がっているという風景)を伊藤が何度も何度も見てきたからであろう。私も何度か見たことがある。そして、伊藤と私の違いは、伊藤はその見た風景を何度も何度もことばにしてきた、ということだ。書くとか、誰かに話すというのではなく、伊藤自身のなかで、何度もことばにしてみたのだ。描写してみたのだ。だからこそ、
これから後は
砕かれていく
散らばっていく
という簡潔で、しかもリズムがあって、なおかつそのリズムの中に「時間」そのものがあるという美しいことばになるのだ。
私は「抒情」というものが嫌いだったが、伊藤の詩を読んで、ああ、やっぱり詩の基本は「抒情」にあるのだ、と思ってしまう。
丈低い草の中にとどまっても
それを露草と見まがうことはない
この悲しさは、伊藤にしか書けない抒情だ。
洗濯ばさみの破片を露草の花と勘違いしたという抒情なら、たぶん入沢康夫なら書ける。露草の花と見間違え、そこから別の世界へと進んでいくという詩なら入沢康夫には書けるだろう。(そういう詩なら、入沢康夫は書くだろう、という意味である。)しかし、伊藤は洗濯ばさみの破片、車にひかれて、砕けた破片を露草とは見間違えない。絶対に、見間違えない。なぜか。何度も何度もそういう風景を見てきたからだ。そして、何度も何度も、それを「露草」と見間違えてきたからだ。あきるほど見間違えてきた。だから、今は絶対に見間違えない。
「見まがうことはない」という静かなことばの奥には、悲しい悲しい抒情がひっそりと呼吸をしているのである。
この呼吸を大切にしたまま、詩は静かに進む。
最終のバスが来た
ふり返ると
海は一枚の黒い布のようにして
島を包んでいた
小さな子の手をとると
窪みの奥に貝殻が握られている
暗く膨らんだ海は
浜に貝を寄せることなど
とっくに忘れたようにみえたが
帰るあてのない父のために
ひと日の終わりには
なにかをそっと用意する子に
海は
これを と
突然、涙がこみ上げてきて、私はびっくりしてしまった。
青い洗濯ばさみの破片が草むらに落ちているのを見て、伊藤は何度も何度もそれを露草と見間違えてきた。わかっていても、繰り返し繰り返し、見間違えてきた。その繰り返しの果てに、もうそれを露草と見紛うことはないと自分に言い聞かせている。
その伊藤の前に、突然、つまらないもの(大人から見て、つまらないもの)を、とても美しいものに見間違える子供があらわれる。小さな貝殻。それは何? 子供には父への大切なお土産。子供は、それを本当に宝物と見間違えているのだ。--そのときの、見間違えるこころの美しさ。純粋さ。つまらないものを美しいもの、世界でたったひとつのものと見間違える「能力」というものが、どこかにある。そして、それを大人になった伊藤は失ってしまったが、ふいに、子供によって教えられるのだ。
どきっ、とする。そして、涙があふれてくる。
伊藤は、それを子供が発見したとは書いていない。海がそっと「これを と」子供に教えてくれて、その声を子供が聞いて、貝殻を広い握りしめていると書いている。
自然は非情だ。人間のこころなんかまったく気にしない。貝殻なんてつまらないもの、という大人のこころなんか気にしない。そして、そういう大人のこころを無視して、純粋な子供にだけ語りかけたのだ。これをお土産にするといいよ。お父さんが喜ぶよ、と。子供はその声を聞いて、ただ従っている。貝殻を宝物だと信じている。
ほんとうは何も知らない子供ではなく、何もかも知っている大人、伊藤こそが貝殻を宝物と見間違えなければならないのだ。そういうこころを取り戻さなくてはならないのだ。--そういう悲しみ。その瞬間の抒情。
とてもいい詩集だ。