詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井豊美「地上」、鈴木章和「舟遊び」

2007-08-25 10:45:19 | その他(音楽、小説etc)
 新井豊美「地上」、鈴木章和「舟遊び」(「楽市」60、2007年08月01日発行)
 多くの詩人が俳句を書いている。新井の俳句ははじめて読んだ。

鬱々と堆もるものあり枇杷熟れる

 私にはことばの重なりが多いように思える。「鬱々」「堆もる」「熟れる」。意味が自然に立ち上がってきて枇杷を隠してしまう。いかにも「現代詩」という感じがする。「枇杷」という季語が屹立して来ない。
 同じような感じで、

秋麗の天の冥府のザクロ割れ

 「冥府」と「ザクロ割れ」が近すぎる。「秋麗」と「天」が近すぎる。「天」と「冥府」が近すぎる。新井の向き合っている世界に、ことばで誘い出され、ほうりだされた、という解放感がない。

掌にぬくし卵ひとつといういのち

 この句にはこころひかれるものがある。「いのち」がたぶん観念的すぎる殻かもしれない。リズムもぎごちない。それでも「卵ひとつ」の「ひとつ」がとても魅力的だ。
 「ひとつ」をつかった別の句。

はればれと身ひとつとなるゆず湯かな

 「身ひとつとなる」の「なる」がいいなあ。
 ただし、その「なる」が終止形ではなく、「ゆず湯」にかかる連体形なのが、とても重い。「はればれ」から「ゆず湯」までがきっちり結びついていて、解放感に欠ける。
 宇宙に(自然に)対して人間が開かれる、というのとは違って、宇宙(自然)を新井の内部に取り込もうとする感じが強い。あ、「現代詩」とは「世界」を自分自身の内部に取り込み、自己の内部と世界を拮抗させる文学なのだ--とふと思った。
 「現代詩」をひきずったまま、俳句を書いているという印象が残る。完全に俳人になっていないという点で、おもしろいといえばおもしろいけれど、5・7・5で「現代詩」を書くという意識があってそうしているのか、無意識のうちに「現代詩」が顔を出してしまうのか、私にはちょっと区別がつかないけれど、後者のように思える。



 鈴木の句は、ことばの動きがとても自然だ。ことばが肉体となっている。

蓮の葉の重なりに夏兆しけり

 「に」が繊細で美しい。視線を誘って、誘った先でぱっと解放する。集中と解放が「に」のなかにある。
 とても視力のいいひとなのだろう。
 具体的な写生、そのことばの運びにゆるぎがなくて気持ちがいい。たとえば次の句。

刈りあとの草に紛るる蚯蚓かな

湖面より低く座したる涼み舟

 「紛るる」。あ、紛れるということばはこんなときにつかうのかと、はっとする。「低く座したる」の「低く」も、ほかにことばがみあたらない。誰もがつかうことばなのに、そのことばによって世界がぐっと引き寄せられ、その直後ぱっと解放されて、いままで見ていた世界が一気に輝き、ひろがって行く。
 こういう世界は「現代詩」ではむずかしい。

藻が咲いて雨待つ日々となりにけり

蛇の衣あしたが遠くありにけり

 「なりにけり」「ありにけり」とぱっと切れる感じがいいなあ。「切れ字」はこんなふうにつかうんだなあ。

夏蜜柑をばりりばりりと剥きくれし

 「を」がとてもいい。「を」の存在によって「ばりりばりり」の音が、まるで夏蜜柑を剥いている現場に立ち会っているように強く響いてくる。皮をむくとき、飛沫が飛ぶが、その飛沫まで肌で感じる。耳で「ばりりばりり」を聞くのだが、その音が、飛ぶ飛沫を追いかける視線、その飛沫を浴びる肌を統合する。聴覚、視覚、触覚が、一点に凝縮し、同時に四方へひろがって世界ができあがる。
 こういう句を読むと、俳句はすごいものだなあ、と思う。

コメント (2)
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