詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

原恵一監督「河童のクウと夏休み」

2007-08-06 00:36:03 | 映画
監督 原恵一 声 富沢風斗、横川貴大

 夏の風景が美しい。白い光が空中に乱反射し、影はあくまでくっきり。健康な夏。実写ではありえない空気の力強さがいい。昔は確かにこんな風景あった。
 この白い光であふれた空気がクライマックスで赤く染まる。その日中から夕方への1時間を、このアニメは丁寧に描く。空気の色の変化を描く。一日の終わりの夕焼け。それが夏の終わりに重なり、さらに貴重な時間、夏休みの終わりに重なる。その間に、こころは動きつづける。そして、動き続けたこころから、最後に「声」が飛び出てくる。こころからこころへ響く二人だけの声。河童のクウと少年の別れ。二人は互いを見つめない。見えない。見えないから「こころの声」で語り合う。見えないことが、より強く「こころ」を浮かび上がらせる。
 涙が出る。
 あ、この映画は見えないものを見てしまった少年の物語なのだと、その瞬間気がつく。
河童は現代にはいない。見えない。少年はその見えないものを見てしまったために、見えないものにつながっているさまざまなものを見てしまう。自然破壊もマスコミの喧騒も、いじめも。それからまだ残されている自然。同じように少年のこころのなかに残っているやさしさ、も。
 そして、そういうものを見ながら少年が見逃してしまうものもある。河童が自殺を思いとどまるときに現れた竜。少年は河童のクウをひたすら見つめていたので、みんなが見た竜を見ていない。見ていないけれど、少年はそのことが残念ではない。クウが東京タワーから飛び降りなかったことにより、クウと一緒にいる時間が増えたからだ。
 幸せとは、自分にとって大切なものが見えること。自分にとって大切なものを発見すること。
 クウには死んだ父親の腕が父親のものであることが見える。少年は、いじめられっ子の少女のこころが見えるようになる。見えないものが見えるようになることが成長である、と書いてしまうと、なんだか教科書くさくなってしまうが、このアニメは私の文とは違ってあくまで楽しい。
 特に、遠野の川での、河童の川流れ(?)、屁の河童ならぬ、屁の噴射で水中を猛スピードで泳ぐクウの生き生きした感じ。それにつれて少年の肉体の喜びが爆発する感じ。水中から見上げる空。光の揺らぎ。見ていると山の川で泳いだ肉体の感覚がよみがえる。とても興奮した。そうした山の川の体験を少年と、またクウと共有している感じになるのだ。
 美しい風景とは相反するように、ちょっとつたない主人公たちの動きも、奇妙にノスタルジックで楽しい。少年が走るシーンなどは、止まったまま走る「エイトマン」(昔のテレビ漫画)に近くて、不思議な味がある。ジブリにはない味だ。この感覚も、私の世代には、少年、クウとの時間の共有感覚として、とてもなつかしかった。
 遠野の宿で流れる「座敷童の子守唄」も美しい。とても気に入った。


コメント
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