詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「金魚」

2007-08-29 12:37:07 | 詩(雑誌・同人誌)
 和田まさ子「金魚」(「現代詩手帖」2007年09月号)
 「新人作品」欄。蜂飼耳が「入選」に選んでいる。1連目がとてもおもしろい。3連目もおもしろい。

きのうから
藻の夢を見ると思っていたら
今日
わたしは金魚になっていた
同居のつた子さんも
いっしょに金魚になったのだが
つた子さんは
「わたしはもうこのへんであがるよ」
といって
にんげんに戻っていった

そのあと
わたしは金魚のままだった
金魚の体の
オレンジ色と白のバランスが
とってもよかったし
尾ひれが大きくて
ひらりひらりと
水の中でゆれるのが美しい
くねくねっと動くと
尾ひれもくねっと揺れる
水がねっとりと体にひっついてくる
充たされている感じが
よい

そうやって遊んでいると
「そこの金魚 もうあがってよ」
と、つた子さんがいった
「お風呂に入れないよ」
わたしはお風呂で泳いでいたのだ

 このあとさらに2連あるのだが、省略する。
 1連目がおもしろいのはスピードがあるからだ。藻→金魚のあと突然「同居のつた子さん」が登場する。そして「もうこのへんであがるよ」ということばとともに人間に戻る。このことばの動きのなかに、古い言い方かもしれないが「起承転結」がある。「転」は「同居のつた子さん」である。何の説明もない。なぜ同居しているのか、というようなことは省略して、突然「異物」(?)が侵入してきて、世界を変えてしまう。藻→金魚だけなら、「わたし」個人の夢だが、「つた子さん」が登場することで「夢」が破れる。閉鎖的な夢から開放的な夢にかわる。現実が夢に侵入してきて、夢の閉鎖性をこじ開ける。
 2連目は、せっかく破れた夢なのに、もとの夢にしがみついていてスピードがにぶっている。それが残念である。
 3連目は、もう一度スピードがあがる。詩全体の「転」の部分にあたるのだが、しかし、スピードが1連目に比べると重い。軽さがない。
 どうしてだろう。

と、つた子さんがいった

 この行の「いった」が説明しすぎている。そこでスピードが一気に鈍っている。「と、つた子さん」で「いった」を省くと印象ががらりと変わると思う。「そこの金魚 もうあがってよ」と「お風呂に入れないよ」の距離が密着し「つた子さん」という異物が侵入してきて夢をもう一度破っていく感じがする。「いった」と説明してしまうと、「つた子さん」が後ろに引いてしまって、「いった」ことの「内容」が前面に出てきて、重くなる。「転」になりきれないのだろうと思う。
 ここでスピードが落ちてしまったので、最後の2連は失速してしまう。特に最終連が、それまでのことばの楽しさ、不思議さを台無しにしている。

 とてもおもしろいのに、とても残念。--こういう詩を読むと、なんだか悔しい思いがするのは私だけだろうか。もっともっといい作品になるはずなのに、どうして途中で違ってしまうのだろうか、と私は悔しくてしょうがない。


コメント
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