長嶋南子「産み月」(「すてむ」38、2007年07月25日発行)
長嶋南子について私は何も知らない。「産み月」を読みながら、「ツレアイ」と死別した女性と思った。
「河原」は「三途の川」の河原であろう。三途の川を渡れずにうろうろしている。夢に出てくるので、そんなふうに想像するのだろう。
この3行の「おまえが決めてくれだって」がいい。その「だって」が。
「……だって」という具合に、ツレアイのことを友人たちに何度か話したのだろう。「……」のなかには、そのつど別のことばが入るのだろうけれど、とりわけ「おまえが決めてくれ」ということばが多かったかもしれない。
ここには長嶋とツレアイの関係だけではなく、そのツレアイとのつきあいをそのまま受け入れている女たちのつながり、広がりがある。長嶋の友だちも、「わたしのツレアイも、しょっちゅうおまえが決めてくれっていうのよ」というような会話をした(する)のだろう。そして笑いあうのだろう。
女と男の、欲情とは違った愛の形がここにある。女が男を受け入れるときの、一種の共通の愛がある。それを「だって」ということばが自然に語っている。
別のことばで繰り返すと……。
この詩には「だって」ということばを聞いてくれる女友だちは登場しない。登場しないのに、あたかも女友だちと会話するときとおなじような口調(口癖)が長嶋の詩にあらわれている。これは、詩のなかに、自然に長嶋の女友だちとの関係が取り込まれているということである。女友だち、気心が知れた友だち、気の置けない友だち、同性。そうした関係のなかで開かれる気分のゆったりさ。そのゆったりさは、同じ性を生きる人間の、一種の同じ体験をもとにした「事実」(日常)の受け入れの姿である。そこには一種の体験の「共有」というものがある。その「体験の共有」が長嶋をゆったりさせるのである。
長嶋がツレアイを愛する、という関係が、女が男を愛するという関係にまで広がり、共有される。男って弱虫だね、男ってだらしないね、男って女がいないとなんにもできない……。そういう感覚を共有しながら、女はゆったりと大きくなって行く。
そういう体験が共有されるものだからこそ、「妊娠→出産」という体験のなかへと、長嶋の思いは収斂し、そこでもう一度別の次元でツレアイをなくしたかなしみが共有されるのだ。このとき、「かなしみ」は「悲しみ」であり、同時に「愛しみ」でもある。死によって、ツレアイはもう一度長嶋のなかで生き返る。そして「出産」されないこと、胎内にいつづけることによって、永遠に生きる。「愛」とともに。「愛しみ」となって。
男はいつになったら、こんなふうにツレアイの死と、ツレアイへの愛を語れるようになるだろうか。
長嶋南子について私は何も知らない。「産み月」を読みながら、「ツレアイ」と死別した女性と思った。
真夜中目覚めると
息をしているのはわたしと猫
目をつむる
見たことがある男がいた
ツレアイだった
ぐずな男だったから
河原をウロウロしている
とまどった時の子どももの顔つきのままで
早く川を渡って
すきなところへ行けばいいのにといってやる
おまえが決めてくれだって
天井がきしむ
猫が顔を上げてききみみをたてている
うす明かりのなかに誰かいる
そんなところにいないでそばにおいで
声をかける
すっとわたしの口のなかに入る
飲み込んでしまった
腹が膨らんできた
ずっと
大きなおなかを抱えている
ツレアイはまだ生まれない
産み月はまだだ
「河原」は「三途の川」の河原であろう。三途の川を渡れずにうろうろしている。夢に出てくるので、そんなふうに想像するのだろう。
早く川を渡って
すきなところへ行けばいいのにといってやる
おまえが決めてくれだって
この3行の「おまえが決めてくれだって」がいい。その「だって」が。
「……だって」という具合に、ツレアイのことを友人たちに何度か話したのだろう。「……」のなかには、そのつど別のことばが入るのだろうけれど、とりわけ「おまえが決めてくれ」ということばが多かったかもしれない。
ここには長嶋とツレアイの関係だけではなく、そのツレアイとのつきあいをそのまま受け入れている女たちのつながり、広がりがある。長嶋の友だちも、「わたしのツレアイも、しょっちゅうおまえが決めてくれっていうのよ」というような会話をした(する)のだろう。そして笑いあうのだろう。
女と男の、欲情とは違った愛の形がここにある。女が男を受け入れるときの、一種の共通の愛がある。それを「だって」ということばが自然に語っている。
別のことばで繰り返すと……。
この詩には「だって」ということばを聞いてくれる女友だちは登場しない。登場しないのに、あたかも女友だちと会話するときとおなじような口調(口癖)が長嶋の詩にあらわれている。これは、詩のなかに、自然に長嶋の女友だちとの関係が取り込まれているということである。女友だち、気心が知れた友だち、気の置けない友だち、同性。そうした関係のなかで開かれる気分のゆったりさ。そのゆったりさは、同じ性を生きる人間の、一種の同じ体験をもとにした「事実」(日常)の受け入れの姿である。そこには一種の体験の「共有」というものがある。その「体験の共有」が長嶋をゆったりさせるのである。
長嶋がツレアイを愛する、という関係が、女が男を愛するという関係にまで広がり、共有される。男って弱虫だね、男ってだらしないね、男って女がいないとなんにもできない……。そういう感覚を共有しながら、女はゆったりと大きくなって行く。
そういう体験が共有されるものだからこそ、「妊娠→出産」という体験のなかへと、長嶋の思いは収斂し、そこでもう一度別の次元でツレアイをなくしたかなしみが共有されるのだ。このとき、「かなしみ」は「悲しみ」であり、同時に「愛しみ」でもある。死によって、ツレアイはもう一度長嶋のなかで生き返る。そして「出産」されないこと、胎内にいつづけることによって、永遠に生きる。「愛」とともに。「愛しみ」となって。
男はいつになったら、こんなふうにツレアイの死と、ツレアイへの愛を語れるようになるだろうか。