野田弘志展「写実の彼方に」(豊橋市美術博物館)
野田の作品で私が一番好きなものはロープを描いたものである。19日の日記に書きそびれたので書いておく。(書きそびれたというより、たくさんの作品を一度に見すぎて印象がまとまらなかったのだが。)
ロープのシリーズを見ていると、野田の絵の描き方がわかる。実際には間違った私の空想かも知れないが、絵を描いてゆく野田の手順が目に浮かぶ。
野田はまず壁面(あるいは床面)を描いてしまう。次に、壁(床)にロープを張り渡すための突起を描く。その後、張り渡したロープを描く。実際に、そこに描かれている構造物(?)を作るのと同じ手順を踏んでいる、という印象がある。
全体の画面構成を考えながら描くというより、まずロープも突起もない壁面そのものを完成させることからはじめる。そのあとその壁面にふさわしい突起を取り付け、さらにロープを張り渡す。絵の製作過程には、時間が、その構造物が出来上がったのと同じ順序で流れている。
絵のなかに時間が存在する。野田は時間を絵で描いている。
一方、私は野田の風景画にはひきつけられなかった。阿寒湖を描いた2枚が展示されていたが、その風景の構図には新鮮な印象があったが、おもしろい、こんな絵を描いてみたい、という気持ちにはならなかった。
ロープシリーズには、そこに描かれている存在が存在に「なる」までの時間が描かれているが、風景にはそういう時間は描かれていない。描かれているのは、人間の営みを超越した時間、「無」にまでたどり着いてしまった時間である。阿寒湖の美しさに人間が太刀打ちできないのは、阿寒湖の風景が完成するまでの時間を人間が再現できないからである。「無」には対抗できない。受け入れるしかない。「無」のなかでの再生ということが試みられているのかもしれないが、よくわからない。
巨大な自然が抱え込む「無」、人間を超越した時間に比べると、黒シリーズの「無」は身近である。巨大な「無」ではなく、たとえば鳥を、その一枚一枚の羽として、その色として存在させるだけの「無」である。野田の用意した「無」(黒い空間)のなかで、鳥の羽の記憶、色の記憶がよみがえり、そこから鳥の「生成」が始まる。生成の現場としての「無」がそこにはある。黒は混沌、カオスの色である。その「無」は何もない「無」ではなく、まだ意識が形にならない(形を持っていない)という意味での「無」だ。そして、その形のないものが形になろうともがいている。その声を野田は聞き取り、絵筆で再現する。
ロープシリーズは、「無」という抽象に頼っていない。何でも含んでいるという混沌に頼っていない。「何でも」という無限を拒絶して、人間の手、人間の肉体から出発している。人間は何を作れるか。そのために何をするか。そういうことを見つめ、具体的な人間の時間に迫ろうとしている。壁にロープを張る。そしてその張り渡されたロープの形、ロープが作り出す模様がおもしろいと思う。その「おもしろいと思う」人間の精神の動きが、人間の成長に役立つかどうかしらないが、そこには確かに人間が存在する。精神のうごきのなかで、人間は芸術家に「なる」。人間がなにかに「なる」ための「時間」が、野田の絵の中に存在する。
野田の作品で私が一番好きなものはロープを描いたものである。19日の日記に書きそびれたので書いておく。(書きそびれたというより、たくさんの作品を一度に見すぎて印象がまとまらなかったのだが。)
ロープのシリーズを見ていると、野田の絵の描き方がわかる。実際には間違った私の空想かも知れないが、絵を描いてゆく野田の手順が目に浮かぶ。
野田はまず壁面(あるいは床面)を描いてしまう。次に、壁(床)にロープを張り渡すための突起を描く。その後、張り渡したロープを描く。実際に、そこに描かれている構造物(?)を作るのと同じ手順を踏んでいる、という印象がある。
全体の画面構成を考えながら描くというより、まずロープも突起もない壁面そのものを完成させることからはじめる。そのあとその壁面にふさわしい突起を取り付け、さらにロープを張り渡す。絵の製作過程には、時間が、その構造物が出来上がったのと同じ順序で流れている。
絵のなかに時間が存在する。野田は時間を絵で描いている。
一方、私は野田の風景画にはひきつけられなかった。阿寒湖を描いた2枚が展示されていたが、その風景の構図には新鮮な印象があったが、おもしろい、こんな絵を描いてみたい、という気持ちにはならなかった。
ロープシリーズには、そこに描かれている存在が存在に「なる」までの時間が描かれているが、風景にはそういう時間は描かれていない。描かれているのは、人間の営みを超越した時間、「無」にまでたどり着いてしまった時間である。阿寒湖の美しさに人間が太刀打ちできないのは、阿寒湖の風景が完成するまでの時間を人間が再現できないからである。「無」には対抗できない。受け入れるしかない。「無」のなかでの再生ということが試みられているのかもしれないが、よくわからない。
巨大な自然が抱え込む「無」、人間を超越した時間に比べると、黒シリーズの「無」は身近である。巨大な「無」ではなく、たとえば鳥を、その一枚一枚の羽として、その色として存在させるだけの「無」である。野田の用意した「無」(黒い空間)のなかで、鳥の羽の記憶、色の記憶がよみがえり、そこから鳥の「生成」が始まる。生成の現場としての「無」がそこにはある。黒は混沌、カオスの色である。その「無」は何もない「無」ではなく、まだ意識が形にならない(形を持っていない)という意味での「無」だ。そして、その形のないものが形になろうともがいている。その声を野田は聞き取り、絵筆で再現する。
ロープシリーズは、「無」という抽象に頼っていない。何でも含んでいるという混沌に頼っていない。「何でも」という無限を拒絶して、人間の手、人間の肉体から出発している。人間は何を作れるか。そのために何をするか。そういうことを見つめ、具体的な人間の時間に迫ろうとしている。壁にロープを張る。そしてその張り渡されたロープの形、ロープが作り出す模様がおもしろいと思う。その「おもしろいと思う」人間の精神の動きが、人間の成長に役立つかどうかしらないが、そこには確かに人間が存在する。精神のうごきのなかで、人間は芸術家に「なる」。人間がなにかに「なる」ための「時間」が、野田の絵の中に存在する。