詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉谷昭人『霊山』

2007-11-03 12:06:46 | 詩集
 杉谷昭人『霊山』(鉱脈社、2007年09月10日発行)
 「八月」という作品がある。夜、月が昇る。この詩は複雑である。

八月六日が何十回めぐってこようと
月はこの杉山にいつも同じ角度でのぼってくる
月は他郷の月になったことはないか
この谷間のムラから出ていきたいと
月がそう決断するときはないのか

 八月六日と月が結びつけられているのは、杉谷の父が八月六日に広島でなくなったということと関係している。
 そうした人情とは関係なく、つまり非情に徹するようにして月は必ずのぼってくる。それが自然である。自然は、あるいは宇宙(天体)の動きは人情とは関係がない。杉谷が広島で亡くなった父のことを思って悲しんでいるときも、その悲しみを思って月がのぼってくるわけではない。月は杉谷をなぐさめるためにのぼってくるわけではない。もちろん、月がのぼってくるのは杉谷をなぐさめるためだと思うこともできるけれど、本当はそうではない。そこに、人間の哀しみのひとつのあり方がある。真理(宇宙の事実)に対する認識と、自分の生活に対する思いとの、絶対的に融合しない瞬間があり、人間は、その二つをともに理解することができる--という人間の哀しみ(さびしさ)のあり方がある。
 その非情を、どう「人情」にかえてゆくか。非情を「人情」にかえることで、宇宙全体と交流できないか。「人情」を宇宙の動きであるかのようにとらえることはできないか。詩人は、だれでそうしたことを試みる。杉谷は月を人称化してみる。

この谷間のムラから出ていきたいと
月がそう決断するときはないのか

 その1行前の「月は他郷の月になったことはないか」もそうだが、これは非情な自然からみれば、とんでもない人称化である。月は「ムラ」の月になどなったことはないし、その「ムラ」にとどまりたいと思ったこともない。だいたい月に「思う」という精神的な動きはないし、精神が存在しなければ「決断」もない。その「ムラ」から出たことのない人間だけが、月はいつも「ムラ」の「杉山」からのぼると思い込んでいるだけである。
 ここでは月を人称化したつもりでいて、その実、月に託して、そこに住む人間の思いを語っているのである。
 八月六日、広島原爆の日。それが何十回めぐってこようと、その「ムラ」で生活するひとは同じ暮らしをする。月と同じように、以前の生活をする。鍬を泥を落とし、その鍬に山水道の冷たい水をかける。それは「永遠」と呼んでいいくらいにかわらない生活である。「ムラびとよ、この谷間のムラから出ていきたいと、そう決断するときはないのか」と、杉谷は問いかけているのである。
 これに対する「答え」はむずかしい。非常にむずかしい。
 特に、八月六日に広島で亡くなった杉谷の父を結びつけて考えると、とてもややこしくなる。(なぜ、こんな複雑な詩を杉谷が書こうとしたのか、実は、私にはわからない。)「ムラ」を実際に出ていったひとがいる。杉谷の父である。その父は広島で被爆し、死亡した。「ムラ」の外では、「ムラ」で暮らしているときとは違った時間にさらされる。それはときには危険なことでもある。
 だが、ひとが「ムラ」を出てゆかないのは、たとえば杉谷の父のようになることを心配してでのことではない。(もう一度書いておくが、なぜ、こんな複雑な詩を杉谷はかこうとしたのだろうか。)そうではなくて、月が永遠に八月六日に杉山にのぼるように、おだやかに繰り返される生活がそこにあるから出てゆかないのだ。繰り返されることのなかにある「永遠」--それが人間のいのちと密接に結びついていると感じているから出てゆかないのだ。
 だれも、そういう自然の永遠(非情)と人間の永遠(人情)が交差する瞬間、月をみて、あ、ことしも八月六日には杉山に同じ角度で月が出た--というようなことをことばにして、それで自分の生活を振りかえることなどしない。そういうこは、いちいちことばにしない。「無言」のまま、「無言」であることによって「永遠」と交わり、「永遠」のなかにたゆたうのである。

この谷間のムラから出ていきたいと
月がそう決断するときはないのか
そう思いながら今夜も鍬の泥を落としている
山水道の冷たい水を存分にかける
その瞬間 体内に満ちてくる
この無言の精気は……何か?

 「無言の精気」。杉谷が信じているのは、その静かな充実である。無言であることによって勝ち得ている永遠である。
 杉谷は、その「無言の精気」を宮崎の「日之影」という町で書き続けてきた。そして、いまも書き続けている。
 この詩では、その「無言」のなかに、「無言」ではいられない「八月六日」を取り込んでしまったために、何かが破綻している。複雑になって、収拾がつかなくなっている。(それほど八月六日は杉谷にとって重要である、ということだ。)収拾がつかなくなったために、いつもは決して書くことのない「無言の精気」という、杉谷が書こうとしていることを、そのまま生のことばで書くしかほかに詩を終える方法がなかった。

 この詩の複雑さは、そこにある。杉谷には書かずにはいられないことがある。八月六日に父が広島で被爆して死亡した。そのことに対する悲しみ。そして原爆に対しての怒り。また書かずにはいられないこととは別に、どうしても書いてしまうことがある。杉谷の場合は、「ムラ」で生きるひとへの共感である。この詩では、その二つが絡み合って、うまく融合していない。(融合しいていないということが、悪いというのではない。)
 そのために、複雑になっている。杉谷の本当に書きたいのは父に対する悲しみ、原爆に対する怒りなのか、それとも「ムラ」で生きるひとの暮らしなのか、暮らしのなかに生きている「無言の精気」なのか……。
 もちろん両方書ければ書けるにこしたことはない。実際、杉谷は、書き終えている。でも、そこに未消化な部分が出てしまった。「無言の精気」という「思想」が、生のままでてしまった。
 これをどう評価するかが、さらにむずかしい。
 杉谷がこの詩を新たな詩への出発点とするのなら、それはたいへん面白い試みだと思う。



 ややこしくはなく、ただただ美しい詩行を引用しておく。杉谷は人間の生活の「永遠」をしっかりと描くが、視線が動物や草木にむけられたときも、その視線は「永遠」に到達する。生きているもの、いのちのあるものと、自然(宇宙)の無生物と交流し、そのふたつがともに生きる一瞬(永遠)に到達する。たとえば、次のように。

牛の鼻がのそり
風のなかに押し出されてくると
風は一瞬身がまえて
台所の引き戸のすべりを凍りつかせ
また牛の呼吸のかたちにとけていく   (「冬の庭」)

剪定を終えたら
枝に張りが出てきた
背負っていた空の重さが
それだけ軽くなったのだろう      (「柿畑にて」)
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