詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上明日夫『雨師』

2007-11-09 23:11:31 | 詩集
雨師
川上 明日夫
思潮社、2007年10月31日発行

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 表記形式が独特である。冒頭の「春の文庫」。

みあげれば 弥生 風 宙のせせらぎ わたしの泪には いまも 右岸と左岸
が あって
きれいに 騒いでいるんだ 濡れているので それとわかる はるのひと文字
の 岸辺の干潟には

 分かち書きといってしまえばそれまでだが、その分かち書きの法則がよくわからない。単語ごとでもなければ分節ごとでもない。川上の意識のなかにはきちんとした法則があるのだろうけれど、それがわからない。そして、それがわからないうえに「わたしの泪には いまも 右岸と左岸が あって」という一気に読ませた方が魅力的なことばも混じっていて、私は読んでいて、ますます混乱する。
 何が書きたいのだろうか。

 「雨師」まで読み進んできて、川上が川上自身のことばで、彼のやっていることを説明している部分に出会った。

陽によってうつしだされ 陽によってたしなめられた その手の紙の 密かご
と しろい乳房を やわらかく 辱めては ときどきの 言の葉で そっと抱
きしめてやる その 想いのかずかず 美しさを 手のごはんに 盛る

 ある瞬間を、「言の葉」(ことば)で「そっと抱きしめてやる」。そしてこのとき「そっと」が重要なのだ。激しく抱くのではなく、「そっと」抱く。激しく抱くことよりも「そっと」抱くことの方が川上にとってはしっかりと抱くことなのだ。
 「抱く」とこは対象を逃がさないということのためだけにするのではない。対象を逃がさないことだけが目的ならば「激しく」「厳しく」「強く」抱く方がしっかりと押さえつけられるだろう。「そっと」では逃げられてしまうかもしれない。
 しかし、川上は「そっと」抱くのである。「激しく」「強く」抱いたときは、相手の抵抗があるかもしれない。「そっと」でも抵抗はあるかもしれないが、激しく抱いたときの方が激しい抵抗があるだろう。そっと抱けば、そっと抵抗があるだけだ。そして、この「そっと」のなかには、ひそかな交流がある。相手を感じ、感じている私を相手に伝える。その伝え合う呼吸が、川上の「分かち書き」のリズムなのだ。そのリズムは、相手によって、相手の反応によってかわるのだ。
 単語ごと、分節ごとという「法則」は適用できない。相手が抵抗する(反応する)その一瞬まで抱きしめ、反応があったとき、そっと放す。それは完全に離れる放し方ではなく、いつでももう一度「そっと」抱きしめることができるだけの「間合い」の離れ方(放し方)である。
 そうした呼吸が、川上の分かち書きなのだ。
 「雨師」の冒頭。

焦がれては また 露が びっしょりと 旅をむすんでいた 糸のような絹々
の おもいの果てで 散文にもようやく寂しさが かなえられた

 「露」には「あめ」とルビが振ってある。ことばに対するこだわりがあるのだ。「旅をむすんでいた」という微妙な日本語。その直後に、アキがあって、「糸のような絹々の」という、またわかったようなわからないような、「雰囲気」のことばがつづくが、これはまさに相手との呼吸をはかっているために生じることである。強引に対象を抱きしめ、論理的な(?)文章にすることもできるだろうけれど、それをしない。あくまで、対象との呼吸を大切にしているのだ。
 「散文にもようやく寂しさが かなえられた」は非常に美しいことばだ。
 私はふいに西脇の「淋しい」を思い出した。この「さびしさ」は西脇に通じる「さびしさ」なのだ。
 西脇の文体は、ある対象を抱きしめて、その抱いたときの感触、対象から受けとった感受性を両手に残したまま、次の対象を抱くという不思議な連続と断絶、飛躍と連続に特徴がある。どうしても断絶し、そして接続してしまうときの破壊に特徴がある。接続するとき、何かを破壊してしまう「淋しさ」に特徴がある。
 西脇のことば、とくに散文がそうだが、この接続による破壊を、西脇が「淋しい」と定義したために、とてもわかりにくく、また同時にそれが魅力になっている。ほかにもっと論理的(?)なことばで説明すればわかるところを、西脇は「淋しい」という抒情(感情)で説明したために、理性の問題であるべきもの(?)が感性の印象に置き換えられてしまった。
 このことは「散文」としては失敗なのかもしれない。
 しかし、そういうことを川上は「かなえられた」と定義している。この不思議な充実--それは、私の印象で言えば、やはり西脇そのものである。
 ふいに西脇に出会い、ふいに西脇を読み直したくなった。

 この私の文章は、川上の詩集の感想になっていないかもしれない。申し訳ないけれど、こういう感想しか書けない。ただ、西脇をはっきり思い出させてくれた大切な詩集である、この詩集は。私にとっては。そして、その西脇が、破壊だけではなく、その破壊のなかに「そっと」という感覚をもしかしたら持っていたのではないか--ということを思い起こさせてくれるというのは、ある意味で、とてもすばらしいことではないかとも思う。そういうことが可能なのは、川上のことばが、ことばの運動が、どこかで西脇と通じているということなのだから。
 --むりやりこじつけた「賛辞」になってしまったかもしれないが。


コメント
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