詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎メモ(2)

2007-11-18 11:43:47 | 詩集
 「ambarvalia」は「わざと」がびっしりとつまっている。詩集のタイトルそのものが「わざと」である。
 「カプリの牧人」。

春の朝でも
我がシシリアのパイプは秋の音がする。
幾千年の思ひをたどり。
   (谷内注・「シシリア」は原文は2度目の「シ」は送り文字)

 この「春」と「秋」の出会いが「わざと」である。ほんとうに「秋の音」がするかどうかは関係がない。「春」と「秋」が出会うことで、そこに時間の広がりが生まれ、それが「幾千年」を呼び出すのである。

 「雨」はとても技巧的である。つまり、「わざと」がやはりつまっている。

南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
湖をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場をぬらした。
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

 「もたらした」の「らした」が「ぬらした」の「らした」となって繰り返される。そして、その「ぬらされる」対象には「噴水」「湖」「魚」「風呂場」と水(ぬれること)と関係のあるものがほぼ交互に登場し、それが「らした」というときの下の動き、「ら」と「た」の行き来(「ら」の音と「た」の音のときの下の微妙な位置、類似した位置、そしてその間にはさまる「し」の効果による往復感)が、肉体に、特に「舌」にとてもここちがよい。
 「風呂場」から「舌」への、肉体の連想そのものがとても自然でもある。「柔い女神」の「柔い」は、そのまま「舌」を修飾することばにも感じられる。
 「らした」が作り出す音楽のなかで、1行目と最終行は、ふいに入れ代わり「南風は柔い女神をぬらした。「私の舌をもたらした。」とも読めるのである。雨が、その雨がぬらしたものを数えあがることが、舌を、つまりことばの音楽を、詩を「もたらした」と、私は感じてしまう。
 雨が詩を「もたらした」(音楽をもたらした、それも舌という肉体に結びついた音楽をもたらした)とは西脇は書いてはいない。しかし、私はそんなふうに読む。読むということは、たぶん、書いていないことを読むことなのだ。

 「雨」にかぎらないのだが、私は、西脇の詩は非常に音楽的だと思う。西脇の詩はよく絵画的だといわれるが、絵画というよりも音楽的だと私は感じる。音が非常におもしろい。
 「カプリの牧人」でも「シシリアのパイプ」という音がおもしろい。「い」の音と「あ」の音の繰り返しがおもしろい。「シシリアのパイプ」というとき、私はどんなパイプも実は思い浮かべない。ただ音のおもしろさ、声に出すときの口の動き、舌の動きが楽しくて、そのことばを読んでしまう。(「カプリの牧人」の「カプリ」も、実は私には、それが何を指しているかは問題ではない。音が大好きだ。)西脇もたぶん「音」が好きなのだと思う。そして「音」を楽しむために「わざと」外国の音を日本語の文脈のなかに引き入れているのだ。

 「菫」も「わざと」らしい作品である。

コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシヤの調合は黄金の音がする

 「銅銭振りで/あるが」という行の「わたり」が「わざと」らしいが、そうした「意味」の攪乱(?)よりも、わたしは「あるが」の「が」の音にとても「わざと」らしさを強く感じる。
 別な言い方をすると、私は、この詩では「あるが」の「が」の音がとても好きなのである。不自然な行のわたりも「あるが」の「が」を意識させるためのものに思える。

コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りであるが
ギリシヤの調合は黄金の音がする

 もし、そう書かれていたら、この詩はとても平凡だと思う。音楽が消えてしまうと思う。
 そして(これから書くことは西脇の肉声を聞いたことのない確認のしようがないのだが)、この「あるが」の「が」は標準語の鼻濁音の「が」ではなく、破裂する「が」であると思う。私は破裂する「が」の音が好きではないが、この行の「あるが」の「が」だけは鼻濁音ではなく、破裂音で読んでしまう。その方が「ギリシヤ」の「ギ」につながりやすいからである。
 「調合」「黄金」「音が」と「が行」がつづく。「調合」「黄金」もつられて破裂音で読んでしまいそうになる。ただし「音が」は私は自然に鼻濁音に戻る。(私にとっては、たぶん「調合」とか「黄金」は「ギリシヤ」やなにか、外国語のように生活のなかではなく、別な場所(学校)で覚えたことばだからかもしれない。)
 西脇は、この行を鼻濁音ではなく破裂音で読んでいたのではないか、と私は想像する。鼻濁音を常に発音している人間には「銅銭ふりで/あるが」という行のわたりは、生理的に発想しにくい。(発想しにくいから、そこに「わざと」が含まれている、という見方もあるかもしれないが。)
 またこの詩には濁音が非常に多く登場するが、ここではその濁音がとても美しい。濁音の美しさをきわだたせている詩だと思う。(引用しなかった残りの4行にも濁音が次々にでてくる。)

コメント (1)
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