詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治『たかくおよぐや』(2)

2007-11-27 09:19:18 | 詩集
たかやくおよぐや
廿楽 順治
思潮社、2007年10月25日発行

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 ことばには「意味」になって流通しているものと、「意味」にならずにとどまっている「おと」に踏みとどまっているものがある。それは別の表現でいえば「意味」を引き剥がすことばである。「にくたい」のことばである。首から上へあがってゆかない。頭の下にぶら下がる、というより、その下に広がり続けるふかぶかとした闇としての「にくたい」のなかで揺れ動いているものである。
 「肴町」という冒頭の作品が好きだ。

ここでは
なにを売ってもさかなになってしまう
ぜつぼう なんて
ひさしく聞いたことはなったが
このさかなの目
だってそのひとつかもしれない
くさくて
にんげんなんかにゃ
そのにおいはとても出せない
そういうさかなになってしまえば
ぜつぼう
も おかずのひとつである

 ここに書かれている「ぜつぼう」。それは「意味」ではない。「意味」になる前の、あるいは「意味」を超越したもの、である。
 「ぜつぼう」という「おと」を最初に聞くとき、私たちは、その「意味」を知らない。知らないけれど、なんとなく、わかるようになる。そのうち、知らないはずなのに、それがわかったつもりになる。そして、「ぜつぼう」を「絶望」と「おと」から「文字」に書き換えるころになると、もう、「ぜつぼう」がなんであったか知らなかったことは忘れてしまう。同時に「絶望」についても考えたりはしなくなる。つまり、「流通している意味」ですべて解決してしまう。このときから、ことばは死にはじめる。
 廿楽の試みていることは、そういう「死んだことば」(「意味」が「流通」のなかで形式的に動いていることば)を、「意味」になる前の状態に引き戻すことである。
 (26日の日記に「3丁目の夕陽」を例に引いたが、それは単に、ことばが「おと」の状態にあった時代ということ、誰でもそういう時代があったということを象徴的に説明するためのものである。私たちは誰でも「意味」を知らずに、ただ「おと」だけを繰り返しまねして、まねしているうちに「意味」をかってに、つまり真剣には考えずに、受け入れてしまう生き物である。)
 ことばに「意味」があると考えるのは普通のことがどうかよくわからないが、たぶん、とても異常なことなのだろうと私は思う。廿楽の詩を読んでいると、特にそんな気持ちになる。
 ことばに「意味」なんかはなくて、ことばをやりとりすること、「おと」を媒介にして人とあれこれやりとりすること--そういう関係のなかで、「おと」がなんとなく何かにかわる。その「何か」とは「空気」である。「空気」が肺のなかに入り、それが喉を通り、声帯をふるわせて「おと」になって汚れてでてくる。その汚れを全身で受け止めているうちに、からだが何かをつかみとる。それを「頭」で整理したもの、つまり「頭」のなかに流通しやすいように余分なものを切り捨てたものが「意味」にすぎないのであって、そんなものは本当は「かす」なのである。「頭」が整理するときに切り捨てたもの、「意味」から除外したものこそ、ほんとうは「意味」を生み出す「いのち」なのである。「意味」とは「存在」するものではなく、いつでも生成されるもの、そのつど生み出されるものなのである。そしてその「意味」をつかみとるとは、生成の、生み出される一瞬の、「いのち」をうごめき、もがき、くるしみ、よろこびを全身で感じることなのである。「意味」は「頭」で整理するものではなく、からだで感じるものなのである。
 こうした「意味」の生成の現場を廿楽は「空気」そのものとして詩に定着させる。廿楽が試みているのは、ことばが、それが「おと」のまま、ほうりだされ、空気を汚し、その空気の汚れに人がたじろぐ一瞬を正確に定着させることである。「おと」に含まれる口臭というような汚れもあるにはあるが、そういう明確な「汚れ」ではなく、廿楽が試みているのは、「空気」が肺に吸い込まれ、ふたたびからだから出てくるときに身につけてしまう「ぬくみ」(体温)そのものの汚れを詩に定着させることである。

くさくて
にんげんなんかにゃ
そのにおいはとても出せない

 この3行の、口語。口語の力。そこにある「空気」。
 場を読む、空気を読むといういい方があるが、廿楽の試みているのは、そういう「空気」をことばのなかに取り戻すことである。「意味」を引き剥がし、「意味」になる前の「空気」を、「おと」のなかに取り戻すことである。
 廿楽の詩には、

みんなちがって
みんなきもちわるい
(やだ このおじさん)
             (「化身」)

のように、かっこのなかに入った行が頻繁に出てくるが、このかっこが「空気」である。
 (あす、もう一回、廿楽の詩について、「空気」について書きたいと、いまは思っている。--私は気分屋だから、書かないかもしれない。きょう書いたことだけでも、「空気」については十分書いてしまったかな、という気もするからである。)

コメント
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