plan 14―詩集野村 喜和夫本阿弥書店、2007年10月20日発このアイテムの詳細を見る |
詩集の前半の詩が少し今までの野村の詩とは違った感じがする。「命名論」の1連目。
秋はどこもすきてだが
とびきり荒涼とした土地の
道なき道を旅している私なのだ
私と私の影なのだ
やがて旅はクライマックスにさしかかる
それは名無しの街道
ち私の影が興奮気味に指さす方に
たしかにひとすじの道が
まるで皮膚のうえの傷痕の盛り上がりのように
目路のはるか彼方まで延々とつづいている
ところどころには大地と同じ朽葉色の
家のかたまりもみえて
ヤホーだがその街道に
名前がないのだという
リズムが、私の印象のなかにある野村のリズムとは違っている。とりわけ、
道なき道を旅している私なのだ
私と私の影なのだ
を読んだ瞬間に感じる一種の眩暈のような感覚、眩暈を引き起こすリズムが野村のこれまでの詩にはないものだと思う。
このリズムは、次のように繰り返される。
「えっ、名前がなくて不便じゃないの?」と私
「じゃあ、名前があると便利なのかい?」と私の影
さらに
「私たちのこの街道に名前がないのは
この街道のほかに街道というものがないからです
だってそうでしょう
これとあれとを区別するために
名前というのはあるのに
私たちのこの街道に名前がないのは
この街道のほかに街道というものがないからなのです
だってそうでしょう」
という具合である。ここでは何が起きているのか。野村は野村自身のことばで次のように書いている。
おやおや繰り返しだ
聞いているうちに数世紀は
過ぎていくかのようだ
リズム--繰り返し。ここにあるのは繰り返しのリズムである。それは書き出しの数行ですでにはじまっている。
なぜ繰り返すのか。
「聞いているうちに数世紀は/過ぎていくかのようだ」という行が象徴的だが、「繰り返し」のなかには「数世紀」に通じる長い時間、「永遠」に通じる長い長い一瞬があるからだ。
ここに展開されているのは、野村の新しい「詩論」である。この詩集の作品は「現代詩プロパー以外の読者にも読めるような、そんなにむずかしくなくて面白いものを、という注文」を受けて書いたものだと野村は「あとがき」で書いている。「あとがき」をそのまま鵜呑みにするつもりはないけれど、野村の意識のどこかに「現代詩」を読んだことのない人へ向けた「祈り」のようなものがあったかもしれない。「現代詩」に無関心なひとに向けて、詩はこういうものですよ、という無意識の誘いかけがあったかもしれない。そして、その答えのひとつが「繰り返し」である。ことばを繰り返す。繰り返すとリズムが生まれる。リズムが生まれると、ことばはさらにそのリズムにあわせて動いてゆく。思いもかけず、自由なところまで動いてゆく--その自由が詩なのですよ、という誘いかけがあったかもしれない。
私は、実際、そういう誘いかけを感じるのだ。そして、その誘いかけが、今までの野村の詩にはなかったものだと思う。
繰り返すことによるリズムの楽しさ、そしてリズムに乗って逸脱していくことの楽しさ--それは、この詩ではまだ小さいかもしれない。しかし、この詩にも逸脱はある。
「えっ、名前がなくて不便じゃないの?」と私
「じゃあ、名前があると便利なのかい?」と私の影
私と、私の影とによる対話。ことばをそっくり受け止めながら反論するとき、そこには気軽な逸脱がある。この反論は、絶対に何か、結論を導き出すための反論ではない。ただ、その場にあわせて、そこにあることばを逸脱させるための反論にすぎない。こうした気楽な(?)逸脱から、詩ははじまるのである。
「繰り返し」はそのまま引き継がれて「反復論」という詩になっている。「反復」とは「繰り返し」の言い換えである。そして、繰り返すということは、どんなに同じにしようとしてみても、すでに「時差」を含んでいるように何がしかの「ずれ」を含んでいる。そこをていねいに見ていくと逸脱がはじまる。「現代詩」がはじまる。(「現代詩」の奥に隠れている、ドゥルーズだのガタリだのの影響も見え隠れてる。)
「反復論」の「ずれ」(逸脱)をもう少し進めて遊びのなかで詩を演じているのが「語彙論」である。
キスって
好きな隙へ唇を寄せ
塞ぐ行為
(原文は「キス」「好き」「隙」は活字の縦の長さが他の活字の2倍)
という具合である。さらに、こんなふうに逸脱していくことばは、それではどんなふうに世界と関係するか--ということを、野村は「統辞論」という形で展開する。あるテーマを繰り返しながら、少しずつ逸脱し、世界をひろげてゆく--その果てに詩を浮かび上がらせる。そういうことを、野村はこの詩集で試みている。
「統辞論」くらいまで読み進めると、「意味論」「音調論」などは、もう読まなくてもいいかなあ、なんて思ってしまうのだけれど、まあ、なんとか私は最後まで読みました。そして「極楽考」といういかにも野村らしい野村ワールドにも出会い、ああ、そうか、愛ッて根気なのか、野村は根気があるなあ、という詩とは無関係な(と思えて、しかしとても関係深い)思いへと「逸脱」することができた。
野村の「詩論」の種明かし(?)のような、楽しい詩集です。