詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子『秘の陸にて』(4)

2007-11-23 11:02:02 | 詩集
 
秘の陸にて
白井 知子
思潮社、2007年10月31日発行

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 白井知子は詩を書くことによって何にかわるのか。奇妙な印象を与えるかもしれないが、私には、白井知子と詩を書くことによって女にかわるのだ、という感じがする。女の血が白井知子の肉体の中を流れはじめる--そういう印象がする。
 そしてそれは白井が女を描いたときばかりではなく、男を描いたときでもそうなのだ。「黄色い花」の「2 文字の溝」の2、3連目。

カラシニコフ銃を肩からはずし
男は深く身をふたつに折りまげた
砂礫まう焦土
いのちの水脈をつなぐ祖父の名 祖母の名
曾祖父 その父 そして その父と母の名
男は名をたぐり 地に刻む
割れた爪で文字の溝をひく

一族にゆるされた呪文
息を噛み 吐きだしきれぬ屈辱を嚥下し
とめどなく ひたすら 溝をひきつづけなければならない
いまはない肉体が
姪の 伯父の 名ざされた文字となり
地を這うものが
もがきくねる群影が
男の身のうちから湧きあがる

 「一族にゆるされた呪文」。それは一族の名前のことである。このときの「一族」ということばにに私は何よりも「女」を感じる。
 「一族」の意識はもちろん男にもある。そして、たとえば現代の、どちらかというと男系社会のなかにあっては「一族」といえば男がつぐものである。(たとえば、日本の天皇制)。そのことばからは、本来「男」が立ち上がってくるはずなのだが、私はなぜか「女」を感じるのである。
 それはたぶん、白井が「男」「女」を超越して、つまり「男系」「女系」を無視して、ひとまともめ「一族」と呼ぶことにも理由があるかもしれない。「祖母」「母」「姪」ということばが「祖父」「父」と同列に書かれている。もちろん論理的に言えば「一族」は男も女もふくめてのものであるが、白井は、ここではそれをはっきりと意識して書いている。その瞬間、男と女が同じく人間であるという視点をもった瞬間、「一族」は「男系」「女系」を超越する。「人間」の「いのち」そのものが立ち上がってくる。その超越の瞬間が「女」を感じさせるのである。
 3連目の「男の身のうちから湧きあがる」というのも、「男」を前面に出しながらも、その肉体の内部を描くことで、「男」を超越する。「人間」そのものになる。その「男」を超越する瞬間が「女」を感じさせるのである。
 男は男を超越しない。男は男にとじこもる。その「枠」を強固にして自己保身をはかる。しかし、女は男を超越して「人間」そのものの「いのち」に立ち返る。そういう超越のあり方が「女」を感じさせる。

 「女性詩」と呼ばれるジャンルがある。(あった、と訂正すべきかどうか、私にはよくわからない。)その「女性詩」に私は「女」を感じることはほとんどない。特に、「女性詩」を論じた女性詩人の論、そこで描かれる女性像には「女」を感じたことがない。そこに描かれている女性像は男性が「女」を「枠」におしこめた人間にすぎない。女性詩人の描く女性詩人像の多くは、男性詩人の「女」(女はこうあるべき)という論を語り直したもの、男の代弁(女を一定の枠のなかに押し込めておくことで男の安全を守ろうとする意識の代弁)にすぎない。
 白井はそういう男が用意した「女の枠」を乗り越える。男を描くことによってである。男がひとりの人間、女と男から生まれたひとりの人間であり、そこには男と女の血が入り交じっている。そこには男と女の感情が入り交じっている。その入り交じりは、区別ができない。区別ができないことによって「一族」の「一」になる、そういうことを明確に書くことによって、男を超越する。男を超越することによって、人間になり、人間になった瞬間に「女」になるのである。
 白井の詩には「人間とは女である」という強い思想がひそんでいて、それが次々に噴出してくる。

 女性詩というものがはじまらなければならないとしたら、白井の、この視点からはじまるしかない、と思う。
コメント
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