早矢仕典子『空、ノーシンズン』(ふらんす堂、2007年10月19日発行)
「五月の待合室で」という作品が美しい。
「どう猛な幸福」ということばのなかに不思議な出会いがある。「獰猛」が「幸福」であるのはなぜか。そこに命があふれているからだ。自分自身でも制御できない命の横溢。そんなものが、たしかにあるのだ。
「待合室」にはいろいろな「待合室」があるが、この「どう猛な幸福」ということばで、その暗示する命の力で、その「待合室」が病院の待合室のように感じられる。
「過去のことか未来のことかも/わからなくなって」という瞬間。それは「今」であり「永遠」である。「今」と「永遠」が一致するとき、それは「過去」でもあり「未来」でもある。「記憶」であり「予感」である。
それはたしかに「それ」としか、ことばにならないかもしれない。
というときの「それ」。--そこにたしかに存在するものがある。そこに早矢仕の真実がある。
そしてこの「それ」は書き出しの2行目の「なにか」と呼応している。「なに」と「それ」という具体性を欠くもの--具体となるまえの存在。そうしたものをみつめることが早矢仕にとっての詩的行為なのだ。
「なに」と「それ」。そこに、ことばにならない対話がある。この対話を別の言葉で言えば何になるだろうか。「重なり合い」である。
ここでも「なにか」は正確には名づけられていない。それはもともと名づけることができないものなのだ。正確には名づけられないからこそ、重なり合うことで確かめるのだ。その存在を。
どの作品も、詩というよりは、詩の誕生について書かれている。詩以前の、こころのふるえのようなものを書いている。繊細である。
「五月の待合室で」という作品が美しい。
五月の待合室で
なにか白くて
途方もなくうつくしいものを待っていたような気がする
それは どう猛な幸福
なんて名づけてみたくなるような
「どう猛な幸福」ということばのなかに不思議な出会いがある。「獰猛」が「幸福」であるのはなぜか。そこに命があふれているからだ。自分自身でも制御できない命の横溢。そんなものが、たしかにあるのだ。
「待合室」にはいろいろな「待合室」があるが、この「どう猛な幸福」ということばで、その暗示する命の力で、その「待合室」が病院の待合室のように感じられる。
五月の待合室で
待ちつづけたものが私の頭の中を
白く裂き開いていった
今となっては 過去のことか未来のことかも
わからなくなって
記憶と予感のあわいのような
その
ふるえ
「過去のことか未来のことかも/わからなくなって」という瞬間。それは「今」であり「永遠」である。「今」と「永遠」が一致するとき、それは「過去」でもあり「未来」でもある。「記憶」であり「予感」である。
それはたしかに「それ」としか、ことばにならないかもしれない。
それは どう猛な幸福
なんて名づけてみたくなるような
というときの「それ」。--そこにたしかに存在するものがある。そこに早矢仕の真実がある。
そしてこの「それ」は書き出しの2行目の「なにか」と呼応している。「なに」と「それ」という具体性を欠くもの--具体となるまえの存在。そうしたものをみつめることが早矢仕にとっての詩的行為なのだ。
「なに」と「それ」。そこに、ことばにならない対話がある。この対話を別の言葉で言えば何になるだろうか。「重なり合い」である。
毎日のように歩くこの道---
あなたは人知れず そこにいて
私は時々あなたについて考えている
あなたの方でも時に思いなど巡らせているのでしょう
それが重なり合うとき私たちは瞬時に立ちつくしている
(「重なり合って」)
ここでも「なにか」は正確には名づけられていない。それはもともと名づけることができないものなのだ。正確には名づけられないからこそ、重なり合うことで確かめるのだ。その存在を。
どの作品も、詩というよりは、詩の誕生について書かれている。詩以前の、こころのふるえのようなものを書いている。繊細である。