砂川公子「重加音の魅力」(「笛」242 、2007年11月発行)
室生犀星の詩の魅力を分析している。声に出すと魅力的だという。そしてその魅力を分析して「同音重加」の語法にあるという。同じ音の繰り返し、たたみかけ、のことである。
こうした手法が犀星特有のものであるかどうかはわからない。たぶん日本語の属性のひとつなのだと思う。砂川自身
という文を書いている。「きっと気付いて」「きつ」の繰り返しが「気付いていたに違いない」の「い」の変奏を呼び出している。「きっと」はなくても文章の意味は同じだが、「きっと」を差し挟むことで「気付いて」が加速し「いたに違いない」という断定へ突き進む。
こうした批評の対象が作者に乗り移る瞬間というのはとてもおもしろい。
そして、犀星に憑依(?)されたあとの砂川は、びっくりするような文章を書いている。先に引用した文章は次のようにつづいている。
「さみしいぞ」といってみる。--これは砂川の声だろう。しかし、それにつづく「だが届かない。」は誰の声なのだろうか。砂川の声なのか、犀星の声なのか。砂川が聞き取り、代弁した犀星の声といってしまうのは簡単だが、そうした二重性はここにはない。重なり合ってひとつになってしまった声があるだけだ。
重ねる(重加音、のなかにもある「重ねる」)ということは、最低ふたつの存在を必要とする。ひとつのものは重ならない。そして、そのふたつのものが重なりあい、重なることで、ひとつへむかって動いて行く。ひとつになってしまう。(砂川の引用している詩にも「たつた一本」と「ひとつ」を強調することばがででくるが……。)
その瞬間が、とても自然に書かれている。
私は犀星の詩はあまり読んだことはないが、思わず犀星を読みたい、と感じた。短い文章だが、とてもこころを動かされた。
室生犀星の詩の魅力を分析している。声に出すと魅力的だという。そしてその魅力を分析して「同音重加」の語法にあるという。同じ音の繰り返し、たたみかけ、のことである。
例えば「つつ」「したたり」の重加音、特に「つつ」がひんぱんにでてくる。
『抒情小曲集』「序曲」には
芽がつつ立つ
ナイフのやうな芽が
たつた一本
すつきりと蒼空がつつ立つ
犀星自身もせりあぐる重層性にきっと気付いていたに違いない。更に凝集していった過程がうかがえる。例えば、
したたり止まぬ日のひかり
うつうつまはる水ぐるま
鮮烈な情景を核にこれらの同音重加が奏でられる。
こうした手法が犀星特有のものであるかどうかはわからない。たぶん日本語の属性のひとつなのだと思う。砂川自身
きっと気付いていたに違いない
という文を書いている。「きっと気付いて」「きつ」の繰り返しが「気付いていたに違いない」の「い」の変奏を呼び出している。「きっと」はなくても文章の意味は同じだが、「きっと」を差し挟むことで「気付いて」が加速し「いたに違いない」という断定へ突き進む。
こうした批評の対象が作者に乗り移る瞬間というのはとてもおもしろい。
そして、犀星に憑依(?)されたあとの砂川は、びっくりするような文章を書いている。先に引用した文章は次のようにつづいている。
鮮烈な情景を核にこれらの同音重加が奏でられる。「さみしいぞ」といってみる。だが届かない。言い尽くせないさみしさとして、この感覚的な直接性が活かされるのである。
「さみしいぞ」といってみる。--これは砂川の声だろう。しかし、それにつづく「だが届かない。」は誰の声なのだろうか。砂川の声なのか、犀星の声なのか。砂川が聞き取り、代弁した犀星の声といってしまうのは簡単だが、そうした二重性はここにはない。重なり合ってひとつになってしまった声があるだけだ。
重ねる(重加音、のなかにもある「重ねる」)ということは、最低ふたつの存在を必要とする。ひとつのものは重ならない。そして、そのふたつのものが重なりあい、重なることで、ひとつへむかって動いて行く。ひとつになってしまう。(砂川の引用している詩にも「たつた一本」と「ひとつ」を強調することばがででくるが……。)
その瞬間が、とても自然に書かれている。
私は犀星の詩はあまり読んだことはないが、思わず犀星を読みたい、と感じた。短い文章だが、とてもこころを動かされた。