詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柏木麻里「蜜の根にひびくかぎりに」

2007-11-13 12:33:13 | 詩(雑誌・同人誌)
 柏木麻里「蜜の根にひびくかぎりに」(「径」2、2007年11月01日発行)
 花、あるいはタイトルに従えば蜜と、その周辺の存在が「8」から「0」へと逆に書き進められている。時間的に、過去へ、過去へとさかのぼるように書かれている。とはいっても、「小説」のようにストーリーがあるわけではない。(ストーリーを読み取ろうとすれば読み取れるかもしれないが。)そこにあるのは「ストーリー」というよりも、想像を誘う「間」である。
 柏木は「間」にこだわっている。それは「8」から「0」への番号の散らし方、各断章のことば、行の散らし方にもあらわれている。ここに引用しても、その形は正確に伝わらないから、その形のまま引用はしないが、柏木はことばと同時に「間」のバランスをとろうとしている。「間」といっしょにあるのは、視覚的には「空間」であるし、意識の中では「時間」である。そして、それが融合するとき、なんといえばいいのだろうか、一種の音楽が生まれる。音楽において音と音との「間」は「和音」、そして「リズム」だが、柏木は、いわばことばを紙の上に「間」をおきながら配置することで、ことばによる「音楽」を演奏している。そして、その音楽は「間」の音楽、「沈黙の音楽」でもある。
 「8」の断章。

花びらのうすさを
両がわからおいもとめている

 この2行は4字下がって書き出されている。そして「7」まで9行のアキがある。7行のアキが「沈黙」である。その沈黙と、読者は向き合わなければならない。「沈黙」からどんな音楽を聞き取るか。
 私は「不可能」という「音楽」を聞き取る。
 もちろん、その「音楽」は「8」の断章のアキだけを見つめていて聞こえる「音楽」ではない。「7」「6」「5」と配置されたことばの「間」を積み重ねることで(読み進むことで)、記憶のなかに響いてくる「音楽」である。
 アキを無視して引用することになるが……。「5」の2行。

なくなったものがひびく
  花の先端で

 私が聞く「音楽」は、「なくなったもの」を追い求める「音楽」である。「なくなったもの」を追い求めるのは「意識」である。ここにあるのは、柏木の「意識の音楽」なのだ。「6」には

そとを
澄ませている


そとにでられなかったものの

          糖度

 ということばがある。ここには「そと」と、書かれていない「うち」がある。「そと」と「うち」の、「沈黙の和音」がある。そうしたものが、沈黙によって作り出されている「和音」が、「そと」(世界)そのものを清澄なものにしている--そんなふうに柏木は感じているのだと思う。

コメント
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