もしもソクラテスに口説かれたら―愛について・自己について (双書哲学塾)土屋 賢二岩波書店、2007年09月01日発行このアイテムの詳細を見る |
プラトンの「アルキビアデス篇」を使って、ソクラテスの「私はあなた(アルキビアデス)の肉体ではなく魂を愛しているのです」という口説き文句に納得できるかどうかを学生と問答している。その問答というか、対話がプラトンの対話篇、つまりソクラテスの対話のやりとりとそっくりなので、とてもおかしい。
ソクラテスの口説き方は間違っている--ということを証明したいのだが、なかなか反論がみつからない。学生があれこれ反論するのだが、そのひとつひとつを土屋が否定してゆく。単純な否定ではなく、その考えを推し進めるとこれこれになる。その結論は、これこれと矛盾する。というやりとりがソクラテスとその周辺の弟子とのやりとりそのままなのである。
何かがわかりかけた、と思った瞬間に、その答えがすーっと消えてゆく。その瞬間の、どうしようもない「いらだち」のようなものに手を焼きながら、それでもことばを積み重ね、なんとか自分の思っていること、感じていることをことばにしようとする。それが実にくっきりと出ている。土屋の「対話篇」というところか。
土屋は最後の方で「ことば」に触れている。(ここが、まあ、結論ですが。)その白眉の部分。
専門用語は簡単だけど、日常使っていることばは非常に複雑なんですね。
ソクラテスのやろうとしたことは、つまり日常使っているはとても複雑であるということを証明したかったのである。どんなふうに使っているかを私たちはほとんど意識しない。そしてそれは、話を単純化すればするほどむずかしくなる。単純な日常会話のなかにはいろんな「意味」が入り乱れている。
「使う」ということばを例に(ソクラテスの対話篇で問題になっているのが、実は「魂」ではなく「使う」ということばそのものであるので)、テニスの場合、どんな具合に「使う」が使われているかを調べている。ラケットを使ってボールを打つ。手を使って打つ。足を使って打つ。腰を使って打つ。頭を使って打つ。「使う」ということばが様々に使われる。腰を使って打つは、腰で打つでもあるが、実際に腰をボールにあてるわけではない。頭を使っても同じである。頭でボールを打ち返すわけではない……。
「使う」って、いったい何なんだ?
私たちは、ほとんどわからずに、わかっている。そういうことが日常の会話である。わかっているけれど、わからない。わからないけれど、わかっている。そいうことが日常にはひそんでいる。ことばのなかにひそんでいる。そのことばの奥へ分け入ってゆくのが「哲学」なのである。
私はソクラテスが、というべきなのか、やっぱりプラトンがというべきなのか、どちらが正確なのかわからないが、プラトンの「対話篇」が大好きである。日常会話のなかにとどまりながら、そのことばの奥へ奥へと進んでゆく対話の、不思議な「ずれ」のようなものが大好きである。
この本ではソクラテスの口説き方はおかしい、ということがテーマになっているが、ソクラテスの場合、口説き方だけでなく、すべてがおかしい。わかるけれど、納得できない。納得できないのに、納得できない、わからない、ということをわからされてしまう。
矛盾がある。そして、それが矛盾だからこそ、そこに「真実」がある。ことばにならないなにごとかがある。
--私は、そこに詩を感じている。
詩を読む場合、その詩のなかに「かっこいいことば」(ちょっと拝借して、いつか知人をあっと言わせてみたいことば、口説き文句として使ってみたいことば)があるのはもちろん魅力的だが、そうではなくて、ほとんどどうでもいいようなことばにも私は魅力を感じてしまうのだ。
私が最初に「なんでもないことば」にひかれたのは(それを自覚したのは)、谷川俊太郎の「女に」だった。そのなかに「少しずつ」ということばが出てくる。一回かぎりである。しかし、それが、キーワードなのだ。「アルキビアデス篇」の「使う」と同じような役割をしているのだ。「少しずつ」にはいろいろな「意味」がある。それを谷川は、「愛」とからめるかたちで「女に」のなかの詩に書き分けた。あらゆる詩のなかに「少しずつ」が含まれている--ということは、そこで書かれている詩はすべてが「少しずつ」愛するようになった愛のすべてが書かれているということでもある。
ひとには、どうしても必要なことばがある。そのことばがないと何も言えないことばがある。そしてそれは「専門用語」ではなく「日常会話」のことばなのである。
土屋のこの本のなかにあるキーワードは先に引用した「日常使っていることば」である。単なる「ことば」ではなく、「日常使っていることば」。「日常使っている」こそがキーワードであると言い換えた方がいいのかもしれないが……。あるいは「日常」とさらに限定してもいいかもしれない。
哲学は「専門」のなかにあるのではない。「専門用語」の奥(?)にあるのではない。「日常」のなかにある。「専門用語」を自在に駆使して論を組み立てることはむずかしい。しかし、同様に、ソクラテスの口説き方のどこか間違っている?ということを日常のことばで語るのはもっとむずかしい。
でも、このむずかしさが、実は楽しい。そこに哲学の喜びがある。