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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松本勲『凡人伝』

2007-11-11 22:13:53 | 詩集
凡人伝―詩集
松本 勲
和光出版、2007年09月25日発

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 「凡人」とは何か。いわゆる名もないひと、か。しかし、名ものないひとというのは実際には存在しない。ひとはひとりひとり名前を持っている。両親が名前をつけ、家族がその名で呼び、友人たちもその名で呼ぶ。歴史に固有の名前を記さないひとであっても、誰もが生きている。
 「順次生」という詩がある。その4連目。

ある思想家が家族について語っている
お前が存在するのは父母兄弟の先にまた
父母兄弟がいてその上にまた父母兄弟がいる
気の遠くなるのような遺伝子の繋がりによるもの
これを親鸞は順次生と言っている

 「凡人」とは、「順次生」として存在を明らかにする人間である、と松本は考えているのだろう。そして、この考えの(この詩の)いちばんの大切な部分は、その考えが「親鸞」のことばであり、また同時に「ある思想家」のことばである、という点だ。そしてさらに大切なのは、「親鸞」よりも、「ある思想家」である。
 「順次生」は松本が考え出した「考え」ではない。思想ではない。親鸞が考え出し、ひとに(名もないひとに)、名もなくても生きているひとに対して、なぜ人間は生きているのかを説明するために語ったことばである。そして、そのことばは次々に語り継がれ、まるで遺伝子のように時代を越えて、いま、ここにある。「ある」思想家によって、いま、ここに伝えられている。
 「ある思想家」の「ある」とは名前を伏せていうときの表現だが、それは同時に「凡人」をあらわしている。ことばは「偉人」(たとえば、親鸞)がひとりいても伝えられることはない。「偉人」は、ただそれを語るだけである。伝えてゆくのは「ある」ひとびと、名もないひとびとなのである。「ある」思想家はたまたま「ある」ひとびとのなかから出てきただけであって、「思想家」でなくてもいいのである。
 あらゆる命の営みは、この「ある」ひとびとによって遺伝子として伝えられている--松本はそう考えているように思える。

 松本のことばは、それを証明するように「ある」を出ていかない。「花村豆腐店」のように固有名詞のあるしてあっても、「花村豆腐店」は「花村豆腐店」でありながら「ある」豆腐店として描かれる。「ある」に吸収されるものだけが松本によってすくい上げられるのである。
 2連目。「祠のあるから一人の青年が発電所にやって来た」という行が象徴的である。「ある」、「一人」の青年。「一人」はこのとき「ある」と同じ意味を持っている。英語でいえば定冠詞「the」ではなく、不定冠詞「a」なのである。無数の不定冠詞としての人間が世の中をつくっている。
 松本は、そうした不定冠詞のひとを、ことばとして定着させようとしている。いったん書かれたものは、そのときから定冠詞つきの存在になるのが普通だが、松本は、あくまで不定冠詞「ある」という状態のまま、人間を描こうとしている。
 「ある」詩人のままであろうとする強い意思を、「ある思想家」の「ある」に感じた。
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