監督 平山秀幸 出演 中村勘三郎、柄本明、小泉今日子、藤山直美
この映画の見どころは勘三郎の演技である。
この映画のなかでは勘三郎だけが、これは映画である。つまり虚構である。芝居である、ということを明確に意識している。勘三郎は歌舞伎がそうであるように、ここでは個人の感覚を表出しようとはしていない。ひとりの人間、まったくの個人が、ある状況のなかでどんなふうに心を動かしたかを肉体で表現しようとはしていない。たったひとりの個人であることを拒絶している。
勘三郎がやっていることは、人間はこういうときにはこういうこころの動きをし、その結果、肉体はこんなふうに動くという「類型」をきっちりみせることである。遊廓で飯を食うシーンにそれがとてもよくでている。遊廓へ行って、そこで太夫に「飯を食っていきな」と勧められたとき、人はどんなふうに飯を食い、後片付けはどうするか。そういうことは、普通の人は知らない。そういう普通の人は知らないことを、こんなふうにするんだよ、とひとつの手本としてやってみせる。そういう「類型」を、むだをはぶいて、すっきりとみせる。それが、この映画で勘三郎がやっていることである。
ほかのどのシーンも同じである。女(小泉今日子)が秘密を打ち明けたとき、どんなふうにして男は対処すべきか。友人(柄本明)が粗相をしたとき、どんなふうにして男はフォローすべきか。あるいは「江戸っ子」というのは、どういう状況のとき、どう振る舞うべきか。そういうことを、個人としてではなく「類型」(江戸っ子+男)として演じてみせる。「粋」とは何か、どういう肉体のふるまいであるかを「類型」としてみせる。
私は歌舞伎はほとんど知らないが、この映画を見ると、歌舞伎がわかる。
そこで描かれているのは個人の感情の深み、あるいは個性ではない。人間の「類型」である。どうすれば人間の感情が劇的に見えるか。そして美しく見えるか。
人はあらゆる行動をする。あらゆる行動に対して、幾千もの反応がある。ようするに人間の体の動きは数えきれない。無数である。しかし、その無数の肉体の動きのなかには、人に、ああ美しいという印象を与えるものと、ぎょっとするという印象を与えるものがある。どうすれば美しく見えるのか。美しさとは何か--そういうことを教えるのが歌舞伎のひとつの要素である。
勘三郎は、そういう所作をさまざまに演じてみせる。これはなかなかおもしろい。
もちろんこうした所作は、ある意味では「見え」である。「わざと」である。人間はどういうときにも「見え」を張る。そして「わざと」何かをする。「見え」と「わざと」の奥に人間の純真を隠す。隠すことで、「粋」を感じさせるのである。
勘三郎の演技がとてもしっかりしているので、映画全体がしまっている。小泉今日子も柄本明も勘三郎にひきずられるようにして「類型」を演じている。そして、その「類型」のアンサンブル、調和が美しく、気楽で楽しい喜劇になっている。勘三郎の演技力というものをまざまざとみせつけられた感じがした。
この映画の見どころは勘三郎の演技である。
この映画のなかでは勘三郎だけが、これは映画である。つまり虚構である。芝居である、ということを明確に意識している。勘三郎は歌舞伎がそうであるように、ここでは個人の感覚を表出しようとはしていない。ひとりの人間、まったくの個人が、ある状況のなかでどんなふうに心を動かしたかを肉体で表現しようとはしていない。たったひとりの個人であることを拒絶している。
勘三郎がやっていることは、人間はこういうときにはこういうこころの動きをし、その結果、肉体はこんなふうに動くという「類型」をきっちりみせることである。遊廓で飯を食うシーンにそれがとてもよくでている。遊廓へ行って、そこで太夫に「飯を食っていきな」と勧められたとき、人はどんなふうに飯を食い、後片付けはどうするか。そういうことは、普通の人は知らない。そういう普通の人は知らないことを、こんなふうにするんだよ、とひとつの手本としてやってみせる。そういう「類型」を、むだをはぶいて、すっきりとみせる。それが、この映画で勘三郎がやっていることである。
ほかのどのシーンも同じである。女(小泉今日子)が秘密を打ち明けたとき、どんなふうにして男は対処すべきか。友人(柄本明)が粗相をしたとき、どんなふうにして男はフォローすべきか。あるいは「江戸っ子」というのは、どういう状況のとき、どう振る舞うべきか。そういうことを、個人としてではなく「類型」(江戸っ子+男)として演じてみせる。「粋」とは何か、どういう肉体のふるまいであるかを「類型」としてみせる。
私は歌舞伎はほとんど知らないが、この映画を見ると、歌舞伎がわかる。
そこで描かれているのは個人の感情の深み、あるいは個性ではない。人間の「類型」である。どうすれば人間の感情が劇的に見えるか。そして美しく見えるか。
人はあらゆる行動をする。あらゆる行動に対して、幾千もの反応がある。ようするに人間の体の動きは数えきれない。無数である。しかし、その無数の肉体の動きのなかには、人に、ああ美しいという印象を与えるものと、ぎょっとするという印象を与えるものがある。どうすれば美しく見えるのか。美しさとは何か--そういうことを教えるのが歌舞伎のひとつの要素である。
勘三郎は、そういう所作をさまざまに演じてみせる。これはなかなかおもしろい。
もちろんこうした所作は、ある意味では「見え」である。「わざと」である。人間はどういうときにも「見え」を張る。そして「わざと」何かをする。「見え」と「わざと」の奥に人間の純真を隠す。隠すことで、「粋」を感じさせるのである。
勘三郎の演技がとてもしっかりしているので、映画全体がしまっている。小泉今日子も柄本明も勘三郎にひきずられるようにして「類型」を演じている。そして、その「類型」のアンサンブル、調和が美しく、気楽で楽しい喜劇になっている。勘三郎の演技力というものをまざまざとみせつけられた感じがした。