詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平山秀幸監督「てれすこ」

2007-11-19 23:48:01 | 映画
監督 平山秀幸 出演 中村勘三郎、柄本明、小泉今日子、藤山直美

 この映画の見どころは勘三郎の演技である。
 この映画のなかでは勘三郎だけが、これは映画である。つまり虚構である。芝居である、ということを明確に意識している。勘三郎は歌舞伎がそうであるように、ここでは個人の感覚を表出しようとはしていない。ひとりの人間、まったくの個人が、ある状況のなかでどんなふうに心を動かしたかを肉体で表現しようとはしていない。たったひとりの個人であることを拒絶している。
 勘三郎がやっていることは、人間はこういうときにはこういうこころの動きをし、その結果、肉体はこんなふうに動くという「類型」をきっちりみせることである。遊廓で飯を食うシーンにそれがとてもよくでている。遊廓へ行って、そこで太夫に「飯を食っていきな」と勧められたとき、人はどんなふうに飯を食い、後片付けはどうするか。そういうことは、普通の人は知らない。そういう普通の人は知らないことを、こんなふうにするんだよ、とひとつの手本としてやってみせる。そういう「類型」を、むだをはぶいて、すっきりとみせる。それが、この映画で勘三郎がやっていることである。
 ほかのどのシーンも同じである。女(小泉今日子)が秘密を打ち明けたとき、どんなふうにして男は対処すべきか。友人(柄本明)が粗相をしたとき、どんなふうにして男はフォローすべきか。あるいは「江戸っ子」というのは、どういう状況のとき、どう振る舞うべきか。そういうことを、個人としてではなく「類型」(江戸っ子+男)として演じてみせる。「粋」とは何か、どういう肉体のふるまいであるかを「類型」としてみせる。
 私は歌舞伎はほとんど知らないが、この映画を見ると、歌舞伎がわかる。
 そこで描かれているのは個人の感情の深み、あるいは個性ではない。人間の「類型」である。どうすれば人間の感情が劇的に見えるか。そして美しく見えるか。
 人はあらゆる行動をする。あらゆる行動に対して、幾千もの反応がある。ようするに人間の体の動きは数えきれない。無数である。しかし、その無数の肉体の動きのなかには、人に、ああ美しいという印象を与えるものと、ぎょっとするという印象を与えるものがある。どうすれば美しく見えるのか。美しさとは何か--そういうことを教えるのが歌舞伎のひとつの要素である。
 勘三郎は、そういう所作をさまざまに演じてみせる。これはなかなかおもしろい。
 もちろんこうした所作は、ある意味では「見え」である。「わざと」である。人間はどういうときにも「見え」を張る。そして「わざと」何かをする。「見え」と「わざと」の奥に人間の純真を隠す。隠すことで、「粋」を感じさせるのである。
 勘三郎の演技がとてもしっかりしているので、映画全体がしまっている。小泉今日子も柄本明も勘三郎にひきずられるようにして「類型」を演じている。そして、その「類型」のアンサンブル、調和が美しく、気楽で楽しい喜劇になっている。勘三郎の演技力というものをまざまざとみせつけられた感じがした。                        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新井高子『タマシイ・ダンス』

2007-11-19 02:01:37 | 詩集
 新井高子『タマシイ・ダンス』(未知谷、2007年08月31日発行)
 「波濤を立てて」という作品の冒頭。

えぇじゃないか、えぇじゃないか、
絵ぇじゃないか、影じゃないか、
江ぇじゃないか、泳じゃないか、
エェ邪ないか、エェ蛇じゃないか、

 どこまで行けるだろうか。どこまで「えぇじゃないか」を繰り返すことができるか。なかなか難しいようである。

翳じゃないか、エェじゃ泣いか、エェじゃ亡いか、エェじゃ内科、

 後半、あたりから、ちょっとおもしろくなるが、その前に、

あなたは時代の仇花で、
わたしは時代の風花ヨ、
ともに実らぬ花ならば、
ヨーホイ、
踊らニャ、損、損、損、song……

 という行を挟んでいるのが、新井の四苦八苦ぶりをつたえていておもしろいといえばいえるかもしれないが、ちょっと残念である。余分なことばをいっさい挟まず「えぇじゃないか」の変奏だけで一篇にしてしまった方がおもしろいだろうと思う。
 新井の詩は、音にこだわっているようで、実際には視覚にこだわっているだけにすぎない。視覚を邪魔するものはない方が快感が強まると思う。
 「花粉症」という作品では、やはり後半に

放ちます、放ちます、放飛、放、放、飛飛、放放

 のあと、鏡文字、横に倒れた活字、逆さになった活字を組み合わせて、「花粉」が飛び散っている様子を視覚化している。これは、快感と言えば快感である。
 新井が楽しんで書いていることがとてもよくわかる。
 ただし、私は、こういう作品は否定はしないが、肯定もしない。
 私は保守的な人間であって、ことばは耳で聞くのが出発点だと感じている。目で見る詩、音にならない詩というのは、肉体が納得しない。私は詩の朗読はしないが、詩を読むとき、無意識のうちに喉を動かしている。頭の中で音を聞いている。長い間つづけて読むと喉が疲れるので、そのことがよくわかる。
 視力で読む詩は、その喉が疲れる快感がない。

 あるいは、私は視力が弱いので、視力で読む詩が苦手なのかもしれない。これは視力の強い人のための詩なのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする