詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高松文樹『時計』

2007-11-10 11:42:50 | 詩集
 高松文樹『時計』(思潮社、2007年10月31日発行)
 時計についての考察を詩にしている。詩は高松には思考であり、思想でもある。そして、その思考、思想はとても明確である。対象と「同期」(シンク)すること。対象と高松の思想・思考をおなじリズムをあわせること。「時計」の刻むリズムと高松の思考・思想のリズムをあわせること。
 「同期」をつよく意識していることは、そのことばが何回か登場することでもよくわかる。

知らず識らず
ヒトは大きな宇宙のリズムに同期(シンク)し
       (「体内時計(1)ヒト」)

ミツバチもミドリムシも
多くの動物たちも
太陽の奏でる明暗のリズムに同期(シンク)し
       (「体内時計(2)ミツバチとミドリムシ)

時計はいろいろな表情を見せながら
人間の呼吸と同期(シンク)し
       (「自然と人間を結ぶ」)

 時計といってもいろいろある。日時計、砂時計、水時計……電波時計。そういうものをひとつひとつ数え上げながら、高松はそれぞれの時計の持っているリズムと高松の思考・思想のリズムをあわせる。同期(シンク)する。
 そして、最後に「時計の奇跡」という作品で、パウロ六世、エジソン、フリードリヒの死と時計との関係で、彼らの時計と人生がシンクロしたことを描いている。人生が終わるとき、時計もとまる。それは彼らが「正しい」時間を「正しく」刻んだという証明でもあるのだろう。
 とても明解である。
 「正しい」時間を「正しく」生きる。一個の「時計」となることが人生だ。それが高松の思考であり、思想である。
 その「結論」。

時計は奇跡をはらんだ一つの有機体であり
遠い宗教である。

 とても明解である。
 「正しい」時間を「正しく」生きる。一個の「時計」となることが人生だ。それが高松の思考であり、思想である。

 しかし、どうも私には納得できない。
 こんなふうに理路整然としたことばで語られることが「思想」であることには間違いなだろうけれど、私がひかれる「思想」とは種類が違う。「思想」とは、こんなふうに理路整然とかたづけられるものではないと思う。矛盾していて、その矛盾の前で、にっちもさっちもいかなくなる。何かを断念してしまって、まあ、生きているからいいか、と引き下がってしまうものこそが「思想」という気がするのだ。頭で整理するのではなく、頭で整理できないものにぶつかったときの手触りのようなもの、抵抗感こそが「思想」だと思う。高松の書いていることばには、その抵抗感が希薄である。
 プラトンの対話篇からはじまるさまざまな思想・哲学は、「結論」をもたない。「結論」をもてないのが思想・哲学である。

 「思想」。それは、たとえて言えば、高松の作品に書かれている田中久重と「万年時計」の関係のようなものである。田中は3年かけ「万年時計」を完成させた。ゼンマイで動く、いまから見れば一種の「からくり」である。それはたいへんなものである。しかし、そのたいへんなものである、というのは同時にたいへんな「むだ」でもある、ということだ。そんな時計、いったい何になる? 何にもならない。誰もその時計で、いま11時20分だから、すぐに家を出れば11時35分の新幹線に間に合う、などと考えたりしないだろう。そして、その役に立たないことこそ、実は「思想」なのだ。役に立たないことでも、それをやってみるしかない。それをつくってみたいという欲望が思想なのである。その欲望を田中から取り去ってしまえば、田中は生きていて楽しくないだろう。役には立たないけれど、それがないと生きていけない欲望の根源に横たわっているもの--それが「思想」である。

 時計と人生はシンクロする--というのは、実は「思想」ではない。
 この詩集に横たわる「思想」は、そういうふうに思考・思想を表明しなければならないと考える高松の生き方である。詩には「思想」を書かなければならないと考える、その考え方そのものが「時計と人生はシンクロする」ということばを超えて存在する。
 そんなふうに、この詩集は読むべきなのかもしれないが、しかし、高松がほんとうにことばが好きなのかどうか私にはよくわからない。高松は考えることは好きなのだと思うけれど、ことばが好きなのかどうか、それを感じることができない。
 このことばが好き--そういうものが伝わってくる作品の方が、私は、より強く思想を感じる。無意味な欲望、そのひとでしかありえない欲望を感じ、なんだかうれしくなる。そういう喜びを、残念ながら、わたしはこの詩集には感じない。
 別なことばでいえば、こんなこと、よく書くなあ、バカじゃないのか、とけなして楽しくなるようなことば、おまえ、ほんとうにそんなことばで毎日ものを考えるのか、とからかってみたくなるような楽しさを、私は、高松の詩には感じられない。
 論理がずれてしまったが……。
 たとえば私には最近の岩佐なをの詩がおもしろい。なぜおもしろいかというと、私には気持ち悪いからである。おいおい、ほんとうにこんなことばが岩佐の体のなかにうごめいているのか? こんなことばが体の中からでてきて大丈夫なのか? そう感じるときの、とんでもない何かが好きなのである。
 高松の詩は、きちんと書かれている。でも、とんでもないものが欠如している。「万年時計」をつくった田中のような、何かとんでもないものが欠如している。私には、そう思えて仕方がない。
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ニール・ジョーダン監督「ブレイブワン」

2007-11-10 00:03:41 | 映画
監督 ニール・ジョーダン 出演 ジョディー・フォスター、テレンス・ハワード、ナビーン・アンドリュース、アリー・スティーンバーゲン

 映画を見ながらまず思い出したのは「長江哀歌」である。ニール・ジョーダンは否定するかもしれないが、ジョディー・フォスターの演じるラジオのパーソナリティーのやっていることはジャ・ジャンクーが「長江哀歌」でやったことの焼き直しである。
 日常の、人が見落としているもののなかに命のあり方を見出し、それを伝えるということ。
 ジャ・ジャンクーは傷ついた存在を映像でくっきりと浮かび上がらせ、そこにいとおしさをあふれさせた。
 ジョディー・フォスター(ニール・ジョーダン)は音でそれを試みようとしている。ニューヨークのさまざまな音。それをラジオで流しながら、ジョディー・フォスターが彼女独特の声で語る。低く、冷静でいながら、その奥にしっとりとした愛情を感じさせる声。たいへん美しい。ジョディー・フォスターの声の中から、ニューヨークがとても美しく浮かび上がってくる。ジョディー・フォスターの声はたいへん魅力的だが、その声の特質を最大限に生かした映画である。
 映画は見るものである。視覚表現である。というのは事実だが、この映画は、映画は同時に「音」であることも伝えようとしている。聞くことの意味を、浮かび上がらせようともしている。それはジョディ・フォスターのラジオ・パーソナリティーというキャラクターのなかにも存在しているのだが、それを導入部として、この映画では、もっとそれ以上のことをも語っている。音の深み、聞くことの深みへと観客を誘ってゆく。
 犯罪を追うテレンス・ハワード。彼はジョディ・フォスターの番組を聞いているという設定になっている。耳を澄ます人間である。この耳を澄ますこと--音を聞くことが事件の解決につかわれる、というのはごく普通の「伏線」だが、この映画では、それ以上のことを語っている。耳を澄ます、ひとのことばを聞く。それはひとのこころの声を聞くということなのだ。
 ジョディ・フォスターが警察へ事件の捜査進捗状況を聞きにゆく。そのとき応対する警官はジョディー・フォスターのことばを聞くが、それは事務的な態度であり、親身ではない。つまり、ジョディー・フォスターのこころの声を聞いてはいない。--その対極にいるのがテレンス・ハワードなのである。テレンス・ハはワードはいつでもジョディー・フォスターのことばと同時に、その奥にあるものを聞き取ろうとしている。ことばの意味ではなく、そういうことばを語るときのこころを聞き取ろうとしている。
 表面的な音(物理的な音)の背後にはその音を成り立たせるものがあり、時間があり、つまり生活がある。
 テレンス・ハワードは、最後は、ジョディー・フォスターのことばを聞かない。聞こうとしない。話させない。そして、そうすることで逆にジョディー・フォスターのこころの声をしっかり受け止める。映画のクライマックスはいつでもことばをもたない。せりふがない。せりふはないが、そこにことばがあふれる。声があふれる。それは観客のことば、観客の越えてある。
 テレンス・ハワードは、観客が聞くのと同じ声を聞いている。受け止めている。そしてそれを実行する。そのとき、その受け止め方が、その行動が、たぶん観客の、そうあってほしいという夢と合致する。(いわば、ハッピーエンドである。)この瞬間を、ことばは壊してはならない。だから、せりふはない。
 この映画は、「聞く」ということ映画にしようとした、ちょっとかわった映画なのである。聞き逃している日常の音、聞いているのにこころに刻むことのなかった音--そこから出発して、人間のこころの声を聞き、それを受け止めるという人間まで造型を深めていくというかなり文学的な内容を、娯楽に仕立ててた、ある意味では問題作である。(問題作をつくっているという意識があるからだろうと思うが、途中には、聞くことの問題点もきちんと描いている。ジョディー・フォスターがラジオのリスナーの声を生放送で伝えるシーン。)

 この映画で、もう一つ書いておかなければならないのは、ジョディー・フォスターの復活である。「羊たちの沈黙」以降、「パニック・ルーム」にしろ「フライト・プラン」にしろジョディー・フォスターは強い女性を演じ続けた。ジョディー・フォスターが事件に巻き込まれても彼女が最後に勝ち残ることは最初からわかってしまっていて、それが映画をつまらなくしていた。この映画では、ジョディー・フォスターは問題をひとりでは解決しない。解決できない。そうしたごく普通の弱さを体現することに成功した。次の映画が楽しみである。
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