高松文樹『時計』(思潮社、2007年10月31日発行)
時計についての考察を詩にしている。詩は高松には思考であり、思想でもある。そして、その思考、思想はとても明確である。対象と「同期」(シンク)すること。対象と高松の思想・思考をおなじリズムをあわせること。「時計」の刻むリズムと高松の思考・思想のリズムをあわせること。
「同期」をつよく意識していることは、そのことばが何回か登場することでもよくわかる。
時計といってもいろいろある。日時計、砂時計、水時計……電波時計。そういうものをひとつひとつ数え上げながら、高松はそれぞれの時計の持っているリズムと高松の思考・思想のリズムをあわせる。同期(シンク)する。
そして、最後に「時計の奇跡」という作品で、パウロ六世、エジソン、フリードリヒの死と時計との関係で、彼らの時計と人生がシンクロしたことを描いている。人生が終わるとき、時計もとまる。それは彼らが「正しい」時間を「正しく」刻んだという証明でもあるのだろう。
とても明解である。
「正しい」時間を「正しく」生きる。一個の「時計」となることが人生だ。それが高松の思考であり、思想である。
その「結論」。
とても明解である。
「正しい」時間を「正しく」生きる。一個の「時計」となることが人生だ。それが高松の思考であり、思想である。
しかし、どうも私には納得できない。
こんなふうに理路整然としたことばで語られることが「思想」であることには間違いなだろうけれど、私がひかれる「思想」とは種類が違う。「思想」とは、こんなふうに理路整然とかたづけられるものではないと思う。矛盾していて、その矛盾の前で、にっちもさっちもいかなくなる。何かを断念してしまって、まあ、生きているからいいか、と引き下がってしまうものこそが「思想」という気がするのだ。頭で整理するのではなく、頭で整理できないものにぶつかったときの手触りのようなもの、抵抗感こそが「思想」だと思う。高松の書いていることばには、その抵抗感が希薄である。
プラトンの対話篇からはじまるさまざまな思想・哲学は、「結論」をもたない。「結論」をもてないのが思想・哲学である。
「思想」。それは、たとえて言えば、高松の作品に書かれている田中久重と「万年時計」の関係のようなものである。田中は3年かけ「万年時計」を完成させた。ゼンマイで動く、いまから見れば一種の「からくり」である。それはたいへんなものである。しかし、そのたいへんなものである、というのは同時にたいへんな「むだ」でもある、ということだ。そんな時計、いったい何になる? 何にもならない。誰もその時計で、いま11時20分だから、すぐに家を出れば11時35分の新幹線に間に合う、などと考えたりしないだろう。そして、その役に立たないことこそ、実は「思想」なのだ。役に立たないことでも、それをやってみるしかない。それをつくってみたいという欲望が思想なのである。その欲望を田中から取り去ってしまえば、田中は生きていて楽しくないだろう。役には立たないけれど、それがないと生きていけない欲望の根源に横たわっているもの--それが「思想」である。
時計と人生はシンクロする--というのは、実は「思想」ではない。
この詩集に横たわる「思想」は、そういうふうに思考・思想を表明しなければならないと考える高松の生き方である。詩には「思想」を書かなければならないと考える、その考え方そのものが「時計と人生はシンクロする」ということばを超えて存在する。
そんなふうに、この詩集は読むべきなのかもしれないが、しかし、高松がほんとうにことばが好きなのかどうか私にはよくわからない。高松は考えることは好きなのだと思うけれど、ことばが好きなのかどうか、それを感じることができない。
このことばが好き--そういうものが伝わってくる作品の方が、私は、より強く思想を感じる。無意味な欲望、そのひとでしかありえない欲望を感じ、なんだかうれしくなる。そういう喜びを、残念ながら、わたしはこの詩集には感じない。
別なことばでいえば、こんなこと、よく書くなあ、バカじゃないのか、とけなして楽しくなるようなことば、おまえ、ほんとうにそんなことばで毎日ものを考えるのか、とからかってみたくなるような楽しさを、私は、高松の詩には感じられない。
論理がずれてしまったが……。
たとえば私には最近の岩佐なをの詩がおもしろい。なぜおもしろいかというと、私には気持ち悪いからである。おいおい、ほんとうにこんなことばが岩佐の体のなかにうごめいているのか? こんなことばが体の中からでてきて大丈夫なのか? そう感じるときの、とんでもない何かが好きなのである。
高松の詩は、きちんと書かれている。でも、とんでもないものが欠如している。「万年時計」をつくった田中のような、何かとんでもないものが欠如している。私には、そう思えて仕方がない。
時計についての考察を詩にしている。詩は高松には思考であり、思想でもある。そして、その思考、思想はとても明確である。対象と「同期」(シンク)すること。対象と高松の思想・思考をおなじリズムをあわせること。「時計」の刻むリズムと高松の思考・思想のリズムをあわせること。
「同期」をつよく意識していることは、そのことばが何回か登場することでもよくわかる。
知らず識らず
ヒトは大きな宇宙のリズムに同期(シンク)し
(「体内時計(1)ヒト」)
ミツバチもミドリムシも
多くの動物たちも
太陽の奏でる明暗のリズムに同期(シンク)し
(「体内時計(2)ミツバチとミドリムシ)
時計はいろいろな表情を見せながら
人間の呼吸と同期(シンク)し
(「自然と人間を結ぶ」)
時計といってもいろいろある。日時計、砂時計、水時計……電波時計。そういうものをひとつひとつ数え上げながら、高松はそれぞれの時計の持っているリズムと高松の思考・思想のリズムをあわせる。同期(シンク)する。
そして、最後に「時計の奇跡」という作品で、パウロ六世、エジソン、フリードリヒの死と時計との関係で、彼らの時計と人生がシンクロしたことを描いている。人生が終わるとき、時計もとまる。それは彼らが「正しい」時間を「正しく」刻んだという証明でもあるのだろう。
とても明解である。
「正しい」時間を「正しく」生きる。一個の「時計」となることが人生だ。それが高松の思考であり、思想である。
その「結論」。
時計は奇跡をはらんだ一つの有機体であり
遠い宗教である。
とても明解である。
「正しい」時間を「正しく」生きる。一個の「時計」となることが人生だ。それが高松の思考であり、思想である。
しかし、どうも私には納得できない。
こんなふうに理路整然としたことばで語られることが「思想」であることには間違いなだろうけれど、私がひかれる「思想」とは種類が違う。「思想」とは、こんなふうに理路整然とかたづけられるものではないと思う。矛盾していて、その矛盾の前で、にっちもさっちもいかなくなる。何かを断念してしまって、まあ、生きているからいいか、と引き下がってしまうものこそが「思想」という気がするのだ。頭で整理するのではなく、頭で整理できないものにぶつかったときの手触りのようなもの、抵抗感こそが「思想」だと思う。高松の書いていることばには、その抵抗感が希薄である。
プラトンの対話篇からはじまるさまざまな思想・哲学は、「結論」をもたない。「結論」をもてないのが思想・哲学である。
「思想」。それは、たとえて言えば、高松の作品に書かれている田中久重と「万年時計」の関係のようなものである。田中は3年かけ「万年時計」を完成させた。ゼンマイで動く、いまから見れば一種の「からくり」である。それはたいへんなものである。しかし、そのたいへんなものである、というのは同時にたいへんな「むだ」でもある、ということだ。そんな時計、いったい何になる? 何にもならない。誰もその時計で、いま11時20分だから、すぐに家を出れば11時35分の新幹線に間に合う、などと考えたりしないだろう。そして、その役に立たないことこそ、実は「思想」なのだ。役に立たないことでも、それをやってみるしかない。それをつくってみたいという欲望が思想なのである。その欲望を田中から取り去ってしまえば、田中は生きていて楽しくないだろう。役には立たないけれど、それがないと生きていけない欲望の根源に横たわっているもの--それが「思想」である。
時計と人生はシンクロする--というのは、実は「思想」ではない。
この詩集に横たわる「思想」は、そういうふうに思考・思想を表明しなければならないと考える高松の生き方である。詩には「思想」を書かなければならないと考える、その考え方そのものが「時計と人生はシンクロする」ということばを超えて存在する。
そんなふうに、この詩集は読むべきなのかもしれないが、しかし、高松がほんとうにことばが好きなのかどうか私にはよくわからない。高松は考えることは好きなのだと思うけれど、ことばが好きなのかどうか、それを感じることができない。
このことばが好き--そういうものが伝わってくる作品の方が、私は、より強く思想を感じる。無意味な欲望、そのひとでしかありえない欲望を感じ、なんだかうれしくなる。そういう喜びを、残念ながら、わたしはこの詩集には感じない。
別なことばでいえば、こんなこと、よく書くなあ、バカじゃないのか、とけなして楽しくなるようなことば、おまえ、ほんとうにそんなことばで毎日ものを考えるのか、とからかってみたくなるような楽しさを、私は、高松の詩には感じられない。
論理がずれてしまったが……。
たとえば私には最近の岩佐なをの詩がおもしろい。なぜおもしろいかというと、私には気持ち悪いからである。おいおい、ほんとうにこんなことばが岩佐の体のなかにうごめいているのか? こんなことばが体の中からでてきて大丈夫なのか? そう感じるときの、とんでもない何かが好きなのである。
高松の詩は、きちんと書かれている。でも、とんでもないものが欠如している。「万年時計」をつくった田中のような、何かとんでもないものが欠如している。私には、そう思えて仕方がない。