詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本真維子『袖口の動物』

2007-11-07 11:39:20 | 詩集
 杉本真維子『袖口の動物』(思潮社、2007年10月25日発行)
 「あかるいうなじ」という作品にひかれた。

爪を切る音が
まるく
うるんでいる午後、

 書き出しの3行が特にいい。「まるく」が独立し、それからゆっくりと「うるんでいる」にかわる。改行のリズム。そこに、不思議な肉体性を感じる。現実を「頭」ではなく、肉体で受け止める感覚を感じる。「うるんでいる午後、」の読点「、」の呼吸もいい。ここから世界がかわる、という予感を静かに伝える。

ベランダで
物干し竿を拭く
陽の射したあかるい、うなじが、
うごくのを見ていた

それはまるで
水槽を眺めるように
わたしを、吸いこんでいった
そのむごんの
素足のようなうごきに
心を、踏んでほしいとさえおもった

 「陽の射したあかるい、うなじが、」という行は、書き出しの3行のようにストレートではない。書き出しのように書き直せば「うなじに/陽が射して/あかるい」になるのだと思うが、直接「うなじ」には触れず、「うなじ」にであうまでに「間」がある。それはベランダで物干し竿を拭くという作業だけではなく(そうした同時並行の作業は、一種の「場」の描写に過ぎず、肉体の描写ではない)、杉本のこころの間であり、「魔」なのだ。爪を切る音はストレートに鼓膜から肉体の中に入り、杉本の感覚を刺激したが、うなじの場合は、うなじを見ているにもかかわらず、うなじそのものではなく、まず「陽のさしたあかるい、」という「あかるさ」を見ている。そして、そこにためらうようにというか、いったん「あかるい」といっておいて、呼吸を整えて「うなじ」を直視する。その「間合い」がとてもエロチックである。かなしみを感じさせる。視線はうなじにたどりつきながらも、そこでもいったんとどまる。「うなじが、」の読点「、」と改行。読点「、」と改行には、そこに書かれていないことばがある。
 杉本にとっては、読点「、」と改行の呼吸が、そっくりそのまま詩なのである。

心を、踏んでほしいとさえおもった

 この1行の読点「、」はとても深い。改行してしまっては、「思い」が切れてしまう。別のものになってしまう。かなしみが別のものになってしまう。

 この、ことばのかわりの(?)改行、読点「、」を読むのはたいへん骨が折れる。ちょっと苦しい。ことばを目で追うだけではなく、声には出さなくても、黙読しながら、喉を、口蓋を、舌を、歯を動かさないと、こころの呼吸がわからない。ことばを「肉体」をくぐらせることで追わないことには、こころが一緒に動いてくれない。
 杉本の詩はどれも短いが、この短さには必然性がある。それ以上長くなると、実際に、苦しくなって読むことができない。
 肉体の間合い、呼吸というものを、しっかり身につけいてる詩人だと思った。

コメント
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