柴田恭子『母不敬』(思潮社、2007年10月14日発行)
「母不敬」という長い詩が冒頭にある。タイトルに「母」はでてくるが、詩のなかには「母」は登場しない。登場するときは、いつも「ハハ」である。「父」「兄」「妹」は登場するが「母」は登場しない。「母」は柴田の意識のなかで、特別な存在らしい。
どんなふうに特別か。扁額の「母不敬」との関係で柴田は書きはじめている。
この「ハハヲ ウヤマワズ」のなかに登場する「ハハ」は「母不敬」の読み方が間違っているように、間違って読まれた「母」なのである。「母」がほんとうはどういう存在なのか知らず、誤読した「母」が「ハハ」なのである。
柴田の母は、柴田の詩を読むと医師をしていたらしい。立派な存在である。かなり厳しい人でもあったようだ。敬われてしかるべき存在である。しかし、柴田は、その医師である「母」に対してどう向き合っていいのかわからなかったようだ。どんなふうに甘えたらいいのか、どんなふうに愛情をたぐりよせたらいいのかわからなかったようだ。その悲しみが「母不敬」を「ハハヲ ウヤマワズ」と読ませ、「母」を「ハハ」と書かせているのである。
「母」にうまく甘えることができなかったのは、なぜか。「母」が甘えるひとには感じられなかったからだろう。「母」は甘えない人間である。したがって、「母」に甘えることは許されない。「母」は甘える人間が好きではない--そういう屈折した思いが、「母」に甘えることを禁じ(これはもちろん柴田が柴田自身に禁じたという意味である)、「母」は尊敬すべき存在という意識を生み出し、それが重荷となって、その反作用のようにして「ハハヲ ウヤマワズ」と読んでしまうのである。
「母」は尊敬の対象であってはいけない。尊敬の対象であるよりも甘えを受け入れてくれる存在であってほしい--そういう思いが、柴田に作用し、「ハハヲ ウヤマワズ」という読み方が生まれ、「ハハ」という表記が生まれる。
ほんとうは「母」に甘えたい。「母」も甘える人間であることを知りたい。「母」が甘える人間であれば、柴田も甘えることができる。そんな思いが、ここには隠されている。--というようなことを考えたのは、18の断章で構成されているこの長編詩の15の部が非常に印象的だからである。
これは柴田が聞いた唯一の、「母の甘え」である。そして、それは家族が聞いた唯一の「甘え」かもしれない。
「甘え」は人間を苦しみから解放する。
そして、「痛みは去った」の痛みは、「ハハ」の肉体の痛みであると同時に、柴田の、母の痛みの声を聞く痛みのことでもある。母が健やかになるとき、柴田のこころからも痛みが消える。そこには母と柴田との静かな和解がある。美しい和解がある。
この「甘えるハハ」を描いたあとから、私には柴田の文体が微妙に変わったように感じる。
柴田の肉体のなかに残っている「甘え」の記憶。肉体を通して呼び覚ます「甘え」の記憶。
この瞬間、柴田は「母不敬」を「ハハヲ ウヤマワズ」とは読んでいないはずである。肉体の記憶は「ハハヲ ウヤマワズ」は間違っていると告げているはずである。
正しい読み方を柴田が知ったのはいつのことなのか。それはわからないが、このときから柴田は肉体の声にしたがって「母」と書くべきではなかったのか、と思う。そうすればこの詩は感動的になる。
「母不敬」が「ハハヲ ウヤマワズ」ではないように、「母」は「ハハ」ではない。そう知った瞬間から、「ハハ」を「母」と書く正直さがあったなら、この詩は感動的なのに、と思わずにいられない。
そして、また「母」が「母」であると知っているのに「ハハ」と書きとおしてしまうところに、なんといえばいいのだろうか、柴田の「母」の、その「医師」であることを貫き通した姿がダブって見え、あ、親子なんだ、血がつながっているんだとも思うのでもあるけれど。
それでもなお、柴田の母が「一センチでも近くにいたい」と言ったように、「ハハ」を「母」と書くことができたらなあ、となぜか、願わずにはいられない。すでに書かれてしまった作品ではあるのだけれど、柴田がいつか「ハハ」を、少なくとも15以降を「母」と書き直してくれないかなあ、と願わずにはいられない。
18は、私は、想像力のなかで「ハハ」を「母」と書き換えて読み、思わず泣いてしまった。「ハハ」を「母」と書き換えると、そこにはなんといえばいいのだろうか、柴田自身が「母」になり、「母」が子どもになり、柴田が子どもに返った「母」を甘やかす風景が浮かび上がり、それが和解のようにこころをなごませ、涙が出てくるのである。
「ハハ」でと、そんな感じにはならない。なれない。とても、それが、とても悔しい。
「母不敬」という長い詩が冒頭にある。タイトルに「母」はでてくるが、詩のなかには「母」は登場しない。登場するときは、いつも「ハハ」である。「父」「兄」「妹」は登場するが「母」は登場しない。「母」は柴田の意識のなかで、特別な存在らしい。
どんなふうに特別か。扁額の「母不敬」との関係で柴田は書きはじめている。
ハハヲ ウヤマワズ と読んだ
この「ハハヲ ウヤマワズ」のなかに登場する「ハハ」は「母不敬」の読み方が間違っているように、間違って読まれた「母」なのである。「母」がほんとうはどういう存在なのか知らず、誤読した「母」が「ハハ」なのである。
柴田の母は、柴田の詩を読むと医師をしていたらしい。立派な存在である。かなり厳しい人でもあったようだ。敬われてしかるべき存在である。しかし、柴田は、その医師である「母」に対してどう向き合っていいのかわからなかったようだ。どんなふうに甘えたらいいのか、どんなふうに愛情をたぐりよせたらいいのかわからなかったようだ。その悲しみが「母不敬」を「ハハヲ ウヤマワズ」と読ませ、「母」を「ハハ」と書かせているのである。
「母」にうまく甘えることができなかったのは、なぜか。「母」が甘えるひとには感じられなかったからだろう。「母」は甘えない人間である。したがって、「母」に甘えることは許されない。「母」は甘える人間が好きではない--そういう屈折した思いが、「母」に甘えることを禁じ(これはもちろん柴田が柴田自身に禁じたという意味である)、「母」は尊敬すべき存在という意識を生み出し、それが重荷となって、その反作用のようにして「ハハヲ ウヤマワズ」と読んでしまうのである。
「母」は尊敬の対象であってはいけない。尊敬の対象であるよりも甘えを受け入れてくれる存在であってほしい--そういう思いが、柴田に作用し、「ハハヲ ウヤマワズ」という読み方が生まれ、「ハハ」という表記が生まれる。
ほんとうは「母」に甘えたい。「母」も甘える人間であることを知りたい。「母」が甘える人間であれば、柴田も甘えることができる。そんな思いが、ここには隠されている。--というようなことを考えたのは、18の断章で構成されているこの長編詩の15の部が非常に印象的だからである。
うとうとしているハハが声を出した
金沢の病院に入院したい と
理由はどうしても言わない
手続きを早くして と言う
兄の友人の病院に入院させようと思ったから
兄に電話した
兄は 富山の病院にしろ と
私がとまどっていると
兄に聞こえるように 大声で
「一センチでも近くにいたい と言って!」
これは柴田が聞いた唯一の、「母の甘え」である。そして、それは家族が聞いた唯一の「甘え」かもしれない。
「一センチでもちかくにいたい」を聞いて
兄が来た
ハハの部屋で
二人静かに話していた
兄は私に声をかけずに帰っていった
痛みは去った
「甘え」は人間を苦しみから解放する。
そして、「痛みは去った」の痛みは、「ハハ」の肉体の痛みであると同時に、柴田の、母の痛みの声を聞く痛みのことでもある。母が健やかになるとき、柴田のこころからも痛みが消える。そこには母と柴田との静かな和解がある。美しい和解がある。
この「甘えるハハ」を描いたあとから、私には柴田の文体が微妙に変わったように感じる。
汗をかいてるね と
熱いタオルで首のあたりを拭こうとした
素早く私からタオルを奪(と)ると
自分で胸のあたりを拭きはじめた
片手で隠して
拭いてあげるね とタオルを取る
こんな小さな胸で
私たち五人は育ったのだ
みんなこの乳房を吸って
命を得たのだと
一瞬 手が止まった
柴田の肉体のなかに残っている「甘え」の記憶。肉体を通して呼び覚ます「甘え」の記憶。
この瞬間、柴田は「母不敬」を「ハハヲ ウヤマワズ」とは読んでいないはずである。肉体の記憶は「ハハヲ ウヤマワズ」は間違っていると告げているはずである。
正しい読み方を柴田が知ったのはいつのことなのか。それはわからないが、このときから柴田は肉体の声にしたがって「母」と書くべきではなかったのか、と思う。そうすればこの詩は感動的になる。
「母不敬」が「ハハヲ ウヤマワズ」ではないように、「母」は「ハハ」ではない。そう知った瞬間から、「ハハ」を「母」と書く正直さがあったなら、この詩は感動的なのに、と思わずにいられない。
そして、また「母」が「母」であると知っているのに「ハハ」と書きとおしてしまうところに、なんといえばいいのだろうか、柴田の「母」の、その「医師」であることを貫き通した姿がダブって見え、あ、親子なんだ、血がつながっているんだとも思うのでもあるけれど。
それでもなお、柴田の母が「一センチでも近くにいたい」と言ったように、「ハハ」を「母」と書くことができたらなあ、となぜか、願わずにはいられない。すでに書かれてしまった作品ではあるのだけれど、柴田がいつか「ハハ」を、少なくとも15以降を「母」と書き直してくれないかなあ、と願わずにはいられない。
18は、私は、想像力のなかで「ハハ」を「母」と書き換えて読み、思わず泣いてしまった。「ハハ」を「母」と書き換えると、そこにはなんといえばいいのだろうか、柴田自身が「母」になり、「母」が子どもになり、柴田が子どもに返った「母」を甘やかす風景が浮かび上がり、それが和解のようにこころをなごませ、涙が出てくるのである。
「ハハ」でと、そんな感じにはならない。なれない。とても、それが、とても悔しい。