詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岸田将幸『丘の陰に取り残された馬の群れ』

2007-11-24 10:57:10 | 詩集
丘の陰に取り残された馬の群れ
岸田 将幸
ふらんす堂、2007年11月11日発行

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 「神話」ということばをふと思い出した。岸田は「神話」を取り戻したいと願っている。「神話」のなかでことばを蘇らせたいと思っている、と。
 「新しい道を眺める人」のなかほど。

きみは夢を見ていた
母を入れ替える夢を見ていた、そして
父をいつまでも見送った

 「母を入れ替える」の「入れ替える」が「神話」である。何と入れ替えるのか。「別の母」であるが、それは「人間」であるとは限らない。動物であることもある。これは古代の神話である。現代の「神話」ではどうなるか。

果物を配す老婆の腰はもう折れて、
沈む人の口は水すら望まぬ
ギッと歩き、
落雷せぬ心に裂ける皮膚
そうだ、帰ろう
コンタクトレンズセンターに
乱暴に記憶を搾り出し
屋根の上に放り投げるわたしたち
日射しがまぶしいというより、なつかしいですね

 現代の「神話」では「母」は「コンタクトレンズ」と入れ替わる。そして、その新しい視力で見る世界。それまでの「記憶」はコンタクトレンズの背後で搾り出され、捨てられる。
 この詩には「わたし」と「あなた」が登場するが、「母」を「コンタクトレンズ」と入れ替え、記憶(過去という時間)を絞り出し、捨ててしまったために、その瞬間から、「血」による「わたし」と「あなた」の識別(区別)はなくなり、融合する。

日射しがまぶしいというより、なつかしいですね

 このことばは、だれが言ったものか、わからなくなる。そして、

はるか遠い月と目の前に雲は流れ、そして背で
守るあなたを
ただ突き抜ける光よ
広いと思うか
やがて海に入る舟
わたしは見た
あなたが足を閉じ
空白を抱えたのを、確かに!

 「わたし」と「あなた」は一体になるのだが、それは「わたし」が「空白」になること、「わたし」が「わたし」ではなくなることによって成り立つ。「わたし」は消滅し、「あなた」自身として再生する。



 「母を入れ替える」ことは「わたし」を空白にすること--「わたし」の「記憶」(過去)を捨て去り自在になること。「空白」は「神話」を成り立たせる「虚構」であり、「記憶」(過去)を捨てることは、より遠い過去を蘇らせ、その力によって現在を破壊することである。「(Winding road)」。

わたしは神であろうが母であろうが
陥没を重ね合わせることしか
できないのだ、この静かな夜尿症……
(略)
目の井戸の底に落ちる音が見ている
目の井戸の底に溜まる音の層が人のもっとも
古い記憶を常に見るのだ/

 だが、「神話」は現代に有効なのか。ほんとうに、「神話」のなかで力を取り戻したことばは現代に有効なのか。
 「古い記憶を常に見るのだ/」のさいごの「/」。この深い断層。しかし、それは深い断層ではなく、「/」とわざわざ明確にしなければならないほど浅い断層である、というのが実情かもしれない。
 わたしは、岸田が「神話」を書こうとしているという意思は感じるけれど、実際には、そこには「神話」は感じないのである。
 「母を入れ替える」ということばを使わずに「入れ替え」がおこなわれるのが「神話」だろう。
 「母を入れ替える」あるいは「/」に感じるのは、一種のセンチメンタリズムである。それが消えたとき、本当の神話がはじまるのだと思う。

コメント
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