詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎メモ(1)

2007-11-12 09:50:45 | 詩集

 「定本 西脇順三郎全集 Ⅴ」(筑摩書房)の「第五巻月報」に篠田一士が「夏の野ばら」というタイトルで文章を書いている。「西脇さんの詩論はなにがなんだかよくわからないものだということを、よく耳にする。」という文ではじまる。篠田は、西脇の一文を引用したあとで、「別に説明はいらない。いや、説明してみてもはじまらない。いやいや、本当のことをいえば、もともと説明なんかできるものではないのだ。」と書いている。とても奇妙である。普通「わかる」というのは、他人のことばを自分のことばで言い直す(説明し直す)ことができることを指す。自分のことばで説明できなければ、やっぱり「よくわからない」というのが正直な感想なのではないのか。
 西脇はいったい「詩論」で何を書いているのか。「詩の消滅」に次の一文がある。

芸術上の法律行為は態と(故意に)やつた時に初めて芸術になる。
              (谷内注・「態と」には傍点が振ってある)

 西脇は詩を詩人が感じたことを書いたものとは定義していない。感じたことを書くのは低俗である。感じていないことを、わざと書く。感じていないことを書いてこそ、芸術である。
 さらにいえば感じていないけれど、感じたいこと、人間が感じるべきことを書き、人間の精神を覚醒させるのが詩である。ことばを通して、感じたいこと、感じるべきことを発見するのが詩人である。
 こういうことを、西脇は「わざと」わかりにくく(?)書いている。なぜ、わざとわかりにくく書くか、といえば、わかりやすく書いてしまえば、それが低俗になるからである。

 西脇は最初から「わざと」ことばを動かしている。有名な「天気」。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
   (谷内注・「ささやく」の2度目の「さ」は原文は「送り文字」)

 西脇は、冒頭から引用ではじめる。それは西脇のことばではない。西脇が感じたことばではなく、他人が感じたなにごとかである。それを西脇は「朝」と「わざと」結びつける。これは西脇が、朝に対して(たとえば、朝の光に対して)、それを「覆された宝石」のようだと感じたわけではない。西脇は「朝は覆された宝石のようだ」とは書いていない。まず「覆された宝石」というものがあり、それを「朝」を描写するのに使おうとする意思がここには存在する。「わざと」が存在する。
 そして、このとき、戸口で誰かがほんとうに誰かとささやいたわけではない。「朝」、誰かが誰かと戸口で声をかわす、というのはありふれた光景である。「おはようございます」「いい天気ですね」というのは日常の朝の挨拶である。そのあいさつからはじまるなにごとかの会話を、ゆっくり起き出してきた男(?)が聞くというのも日常のありふれた光景である。
 ありふれた光景であるからこそ、それが「(覆された宝石)のやうな朝」といっしょに語られたとき、まったく違ったものになる。ありふれた朝の光景も、そこにあるままではなく、別なことばで破壊してゆくとき、その瞬間に詩が噴出する。
 この瞬間、この詩を、西脇は「神」の「生誕」と呼んでいる。

 「天気」はわずか3行の詩であるが、そこには西脇のすべてが凝縮している。この3行のなかには、西脇の「詩論」そのものが息づいている。

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