秘の陸にて白井 知子思潮社、2007年10月31日発行このアイテムの詳細を見る |
白井知子の肉体には「境界」がない。白井知子の肉体は、他者と共振する。そこまで白井はかわってしまう。自己を変革してしまう。ことばを書くこと、正直になることで白井超越する。
「水の墓場」の「1真鍮の壺」の書き出しの1連目。
ながらかに下る石段
くずれかけた寺院
肩先に ふっと なつかしい吐息
死者をおくる館の門が 閉まった
透けた魂が 牛糞をふんで降りていくところだった
「牛糞をふんで降りていくところだった」。このリズムがとても美しい。異国の風景が日本語のリズムのなかに完全に溶け込んでいる。あるいは日本語のリズムが異国の風景に溶け込んでしまっている、というべきなのか。どう言えばいいのかわからないが、そこでは白井が、白井のことばが完全に融合し、白井のいる世界と一体になっている。
3行目に「なつかしい吐息」ということばがでてくるが「なつかしい」とは、こういう一体感のことなのだと実感させられる。
そして、その一体感のなかに、「死者」そのものも入ってくる。生きている人間と死者が一体となって触れ合う。「なつかしい」触れ合い。そこでは「牛糞」さえも「なつかしい」。温かくて、美しい。
2連目も非常に美しい。
ヒンドゥー教徒の聖地 ベレナス
この街で最期をむかえる人々は 終日
読経の声をあびながら みずからの鼓動を聴きわけ
一段ずつ 魂を
肉体の縛(いまし)めからほどいている
真鍮の壺ですくえば
羊水になって たゆたう ガンジスの水
浸けておいたメボウキの葉を
舌にのせ 眠るのだ
ここには悲しみはない。安らぎがあるだけだ。そして、その安らぎは「なつかしい」ものなのだ。「なつかしさ」のなかで、人は死ぬのではなく、生まれ変わる、再生する。「羊水」ということばの必然性がここにある。
「ガンジスの水」が「真鍮の壺ですくえば/羊水にな」るというのは、この地方の(あるいはガンジス流域全体の)「神話」なのかもしれないが、それがこの地方の「神話」ではなく、白井の「神話」にまで高まっている。
日本語は、ここまで変わることができる。
浸けておいたメボウキの葉を
舌にのせ 眠るのだ
思わず、そんなふうに眠ってみたくなる。そう思わせる日本語のリズムだ。「舌にのせ 眠るのだ」のなめらかなうねり。ほんとうに美しい。