詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子『秘の陸にて』(3)

2007-11-22 11:39:08 | 詩集
 
秘の陸にて
白井 知子
思潮社、2007年10月31日発行

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 白井知子の肉体には「境界」がない。白井知子の肉体は、他者と共振する。そこまで白井はかわってしまう。自己を変革してしまう。ことばを書くこと、正直になることで白井超越する。
 「水の墓場」の「1真鍮の壺」の書き出しの1連目。

ながらかに下る石段
くずれかけた寺院
肩先に ふっと なつかしい吐息
死者をおくる館の門が 閉まった
透けた魂が 牛糞をふんで降りていくところだった

 「牛糞をふんで降りていくところだった」。このリズムがとても美しい。異国の風景が日本語のリズムのなかに完全に溶け込んでいる。あるいは日本語のリズムが異国の風景に溶け込んでしまっている、というべきなのか。どう言えばいいのかわからないが、そこでは白井が、白井のことばが完全に融合し、白井のいる世界と一体になっている。
 3行目に「なつかしい吐息」ということばがでてくるが「なつかしい」とは、こういう一体感のことなのだと実感させられる。
 そして、その一体感のなかに、「死者」そのものも入ってくる。生きている人間と死者が一体となって触れ合う。「なつかしい」触れ合い。そこでは「牛糞」さえも「なつかしい」。温かくて、美しい。
 2連目も非常に美しい。

ヒンドゥー教徒の聖地 ベレナス
この街で最期をむかえる人々は 終日
読経の声をあびながら みずからの鼓動を聴きわけ
一段ずつ 魂を
肉体の縛(いまし)めからほどいている
真鍮の壺ですくえば
羊水になって たゆたう ガンジスの水
浸けておいたメボウキの葉を
舌にのせ 眠るのだ

 ここには悲しみはない。安らぎがあるだけだ。そして、その安らぎは「なつかしい」ものなのだ。「なつかしさ」のなかで、人は死ぬのではなく、生まれ変わる、再生する。「羊水」ということばの必然性がここにある。
 「ガンジスの水」が「真鍮の壺ですくえば/羊水にな」るというのは、この地方の(あるいはガンジス流域全体の)「神話」なのかもしれないが、それがこの地方の「神話」ではなく、白井の「神話」にまで高まっている。
 日本語は、ここまで変わることができる。

浸けておいたメボウキの葉を
舌にのせ 眠るのだ

 思わず、そんなふうに眠ってみたくなる。そう思わせる日本語のリズムだ。「舌にのせ 眠るのだ」のなめらかなうねり。ほんとうに美しい。

コメント
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