詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子『秘の陸にて』(2)

2007-11-21 12:00:40 | 詩集
 
秘の陸にて
白井 知子
思潮社、2007年10月31日発行

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 白井知子の特徴のひとつは他者と共感するとき肉体を通して共感することだろう。他者とは、白井にとって「精神」というような形而上学的な存在ではなく、まず肉体なのだ。肉体を感じ、その肉体の奥にある自分とは異質の背景、遺伝子に組み込まれたものを感じ取る。そういう力がある人間なのだ、と思う。
 『秘の陸にて』は3部構成になっている。きのう紹介したのは1部。動物(ことばをもたぬ存在)のなかに生きていることば、遺伝子、DNAと人間が互いに侵犯し合う--といっても人間が勝手に動物に操作を加え、加害者になることによって、逆に侵犯されるという関係を描いていた。そして互いに侵犯し合うこと、加害者が被害者(?)になってしまうことを通して、白井は、今という時間を超越する--変身して、自己自身ではなくなって行く、新しい人間に生まれ変わる過程を描いていた。
 2部はインドやバングラデシュの大地を歩いている。そして、その空気を呼吸して、肉体をしっかりとしたもの、エネルギーに満ちたものにかえていっている。
 「シシュバンの青空」のなかほど。

野生の ときに 僧尼のような目をして
あおむけに転がる子どもたちは
今朝 抱きあげてほしいとせがんできた
ガンジスの赤錆色した水と微塵の土をたっぷり含んだ内臓
昂る血のめぐりを包みこむ皮膚

 白井は、いま、孤児の家「シシュバン」で障害をもつ子どもの世話をしている。世話をしながら、洗濯物を干す作業をしている。水を含んだ重たい洗濯物。重たいといっても限りがあるが、その重さを抱え、物干しロープに放り上げるようにして引っかけ、干す--その作業をしていて、朝、抱き上げてほしいと甘えた子どもを思い出している。その重さを。そして、その体のなかにあるガンジスの水と土埃を。といしのも、洗濯物はしっかりとしぼりきれておらずにガンジスの水を含み、また土を含んでいるからだ。
 あらゆるものがガンジスの水、土といっしょに生きている。それが人間の内臓にもなっている。生きるということは、たしかにその風土を肉体に、内臓にしてしまうことなのだ。
 そうした肉体と向き合い、白井は自分自身を新しく発見する。

斜交いロープには
フリルのついたレースのブラウスや
大胆な柄の小さなTシャツが ずらりとはためき
その隣り 二つ折りのワンピースから 顔がずり落ちそうだった

つぎはぎだらけの微笑を塗り込んだ顔だ
頬が熱風にそがれている
ぎこちない羞恥
あれはまちらがいない
自分をみつめるしかない自分
乾いた わたしの顔
拾いあげようとしたけれど
遠近が溶けあい 印影ごと ふわり気化していくばかり
踏んばろうとした足もとから すくわれて
地べたと天をつなぐ背骨が
わたしには あきらかに薄すぎた

 ここに、こうして生きているマーシー(現地の女性スタッフ)と自分を、そして子どもたちに接して、その肉体を感じたとき、白井は自分自身の肉体の貧弱さに気がつく。「地べたと天をつなぐ背骨が/わたしには あきらかに薄すぎた」。この自覚の瞬間から白井は生まれ変わっている。「精神」が生まれ変わるのではない。「肉体」そのものとして生まれ変わるのである。
 詩は精神の冒険ではなく、白井にとっては肉体の冒険なのである。

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ロジャー・ミッシェル監督「ビーナス」

2007-11-21 00:39:30 | 映画
監督 ロジャー・ミッシェル 出演 ピーター・オトゥール、バネッサ・レッドグレープ、冬の海とその波

 ピーター・オトゥールが老いた俳優を演じている。老いても若い女性にこころをときめかす。そして、老いても(たぶん、ここがこの映画の見せ場)、欲望のままに走るのではなく、節度を守りながら女性に接する、という「紳士」を演じている。その「紳士」と今風の若い女性との対比がおもしろいといえばおもしろいかもしれないが、紋切り型といえば紋切り型で退屈でもある。
 それでも一か所、たいへん美しいシーンがある。
 死を悟ってピーター・オトゥールが生まれ故郷の海へ行く。冬。寒い。それを承知で片足、裸足になり波打ち際で足をぬらす。海に触れる。そのあと。
 浜に引き返し、ベンチに腰掛け海を見ている。青い海ではなく、冬の波が砂をかき乱し、茶色く濁った海である。荒い波の音が聞こえる。荒い、とはいってみても岩をくだくという荒さではなく、適度に荒れた感じである。風の音を感じさせる波の音である。
 ピーター・オトゥールが眠るように意識を失って行く。(実際、いびきのような音が聞こえる。)すると、波の音が消え、すーっと音楽がかぶさってくる。その絶妙な感じ、自然の音が消え、音楽にかわる一瞬、波がゆらーっとたゆたう感じがする。これが非常に気持ちがいい。あ、死ぬ、とはこんなに気持ちがいいものなんだ。満足して死ぬとはこんなに快感なんだ、と実感できる。
 とてもとても美しい。

 冬の海。波のシーンは、実は映画の冒頭にもあり、それを見たときは、まきあがる砂に汚れた冬の海の汚さ、汚れだけが目につき、どうせ波をとるなら(それも思い出の波を映画にするなら--それが「絵」にかわるから、思い出の海とすぐに観客にも変わるようになっている)、もっと美しい海にすればいいのに、と思ってしまうのだが、この最後のシーンで、海の印象ががらりと変わるのである。
 あの、波の音が消え、音楽にかわる瞬間のふわーっとした美しさ、酔ったような美しさは、この砂に汚れた波であってこそなのだ。南の青く澄んだ、きらきら輝く海では、この美しさは伝わらないのだ。
 冬の海。波が砂浜をえぐり、まきあげた砂によって汚れた海。ごみも波間に浮かんでいる。日常の、よごれた海。--それは、そうであるからこそ故郷の海である。そこに漂っているのは、単なるごみではない。いきている人間がはきだしたものである。まきあがる砂も単なる砂ではない。季節ごとに変わる波によって揺さぶられ、生きている砂なのである。
 ある意味では、それはピーター・オトゥールの人生の最後の象徴なのである。
 美しくはない。人生の最後。肉体は衰えている。肉体が悲鳴をあげて、あらゆる汚れを撒き散らしている。波に削られる砂のように、肉体は忍び寄る死によって、汚れを体のなかに抱え込んでいる。無残なごみも漂ってきて、彼をいっそう醜くさせている。だが、それが人生である。
 美しくはない。美しくはなれない。そういう人生の最後において、一方に、美しいもの(女性)が美しさを誇っているのを、若さの当然の権利として若さの過ちを犯していくのを受け入れながら人生と別れを告げる。その一瞬の、「さよなら」の姿。
 繰り返し繰り返し打ち寄せることしか知らない波に託された一瞬。

 死ぬ一瞬に、人は人生のすべてを見るというけれど、その象徴のような感じがする波、波の音が消え音楽に変わる一瞬の--酔ってしまいそうな美しさが、そこにあった。冬の海が、その波が演技している、と思わず思ってしまうくらいの完成された(カメラと音によって作り上げられた)美しさだった。



 バネッサ・レッドグレープがピーター・オトゥールの別れた妻の役ででているが、あいかわらずうまい。ほれぼれする。悲しみが愛(かな)しみにかわる人間の許容力の大きさを静かにつたえる。名優だ。
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