秘の陸にて白井 知子思潮社、2007年10月31日発行このアイテムの詳細を見る |
白井知子の特徴のひとつは他者と共感するとき肉体を通して共感することだろう。他者とは、白井にとって「精神」というような形而上学的な存在ではなく、まず肉体なのだ。肉体を感じ、その肉体の奥にある自分とは異質の背景、遺伝子に組み込まれたものを感じ取る。そういう力がある人間なのだ、と思う。
『秘の陸にて』は3部構成になっている。きのう紹介したのは1部。動物(ことばをもたぬ存在)のなかに生きていることば、遺伝子、DNAと人間が互いに侵犯し合う--といっても人間が勝手に動物に操作を加え、加害者になることによって、逆に侵犯されるという関係を描いていた。そして互いに侵犯し合うこと、加害者が被害者(?)になってしまうことを通して、白井は、今という時間を超越する--変身して、自己自身ではなくなって行く、新しい人間に生まれ変わる過程を描いていた。
2部はインドやバングラデシュの大地を歩いている。そして、その空気を呼吸して、肉体をしっかりとしたもの、エネルギーに満ちたものにかえていっている。
「シシュバンの青空」のなかほど。
野生の ときに 僧尼のような目をして
あおむけに転がる子どもたちは
今朝 抱きあげてほしいとせがんできた
ガンジスの赤錆色した水と微塵の土をたっぷり含んだ内臓
昂る血のめぐりを包みこむ皮膚
白井は、いま、孤児の家「シシュバン」で障害をもつ子どもの世話をしている。世話をしながら、洗濯物を干す作業をしている。水を含んだ重たい洗濯物。重たいといっても限りがあるが、その重さを抱え、物干しロープに放り上げるようにして引っかけ、干す--その作業をしていて、朝、抱き上げてほしいと甘えた子どもを思い出している。その重さを。そして、その体のなかにあるガンジスの水と土埃を。といしのも、洗濯物はしっかりとしぼりきれておらずにガンジスの水を含み、また土を含んでいるからだ。
あらゆるものがガンジスの水、土といっしょに生きている。それが人間の内臓にもなっている。生きるということは、たしかにその風土を肉体に、内臓にしてしまうことなのだ。
そうした肉体と向き合い、白井は自分自身を新しく発見する。
斜交いロープには
フリルのついたレースのブラウスや
大胆な柄の小さなTシャツが ずらりとはためき
その隣り 二つ折りのワンピースから 顔がずり落ちそうだった
つぎはぎだらけの微笑を塗り込んだ顔だ
頬が熱風にそがれている
ぎこちない羞恥
あれはまちらがいない
自分をみつめるしかない自分
乾いた わたしの顔
拾いあげようとしたけれど
遠近が溶けあい 印影ごと ふわり気化していくばかり
踏んばろうとした足もとから すくわれて
地べたと天をつなぐ背骨が
わたしには あきらかに薄すぎた
ここに、こうして生きているマーシー(現地の女性スタッフ)と自分を、そして子どもたちに接して、その肉体を感じたとき、白井は自分自身の肉体の貧弱さに気がつく。「地べたと天をつなぐ背骨が/わたしには あきらかに薄すぎた」。この自覚の瞬間から白井は生まれ変わっている。「精神」が生まれ変わるのではない。「肉体」そのものとして生まれ変わるのである。
詩は精神の冒険ではなく、白井にとっては肉体の冒険なのである。