詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林木林『植星鉢(ぷらねたぷらんた)』

2007-11-30 01:28:08 | 詩集
 林木林『植星鉢(ぷらねたぷらんた)』(土曜美術出版販売、2007年11月20日発行)
 「夕焼け」という詩がある。

私の体じゅうに流れているのは
もしかすると夕焼けで

私の膝小僧の奥を流れる夕焼けの中で
小学生の私がいま擦り剥いた膝を抱いて
真っ白な月を空に見つけている

私の肘のあたりを流れる夕焼けの中で
三歳の私がいま小さな肘を
曲げ伸ばししながらお遊戯している

私の胸のあたりを流れる夕焼けの中で
私はいま生まれたばかりで
自分を包む赤い色が
夕焼けだともわからないで泣いている

 林の特徴が凝縮されていると思う。ひとつは繰り返しである。繰り返しのリズムでことばがどこかへ進んでいく。ほんとうはことばはどこへもゆかず、同じところにとどまっているかもしれないが、繰り返しのなかにある「違い」がどこかへ動いて行っているはずだ、動いていかなければ「違い」は生じないのだから、という感じを抱かせる。
 でも、どこへも動いて行っていない。同じところにとどまっている。「私の体じゅうに流れているのは/もしかすると夕焼けで」という思いのなかにとどまりつづけている。しかもそのとどまり方は「もしかすると夕焼けで」の「で」が象徴的にあらわしているが、終止形ではない。終止形を拒否しながらとどまっている。
 終止形を拒否しながらとどまるという一種の矛盾は不安定なか感じ、揺らぎを呼び覚ます。そして、その揺らぎと、繰り返しの中の「違い」の揺らぎが重なる。--その揺らぎと揺らぎが干渉する--そこに林の抒情がある。林の抒情はそこから生まれてくる。

 もう一つは「三歳の私がいま小さな肘を」の中にあらわれる「小さな」ということばへの偏愛である。
 林は大きなもの、大きくて不動のものには身を寄せない。小さなもの、弱々しいものに身を寄せる。こころを預ける。小さなもの、とは「尺度」が小さいに通じる。「尺度」が小さいととらえられるものが限られてくる。大きなものを小さな「尺度」ではかろうとすると、そこに揺らぎ・誤差(違い)が生まれる。その揺らぎも、林にとっては抒情である。「違い」と「揺らぎ」を引き出すために「小さな」存在が必要なのだ。

 大きなものに出会ったときは、どうするか。「小さなもの」にしてしまう。次のように。(「秋晴れの朝に」の冒頭である。)

いい天気だから
窓をあけて
向かいの家の窓ガラスに映った隣の家の窓ガラス
に映っている斜め向かいの家の窓ガラス
に映っている小さな青空を覗き込む

 「空」はそんなふうに断片に、「小さな」存在にさせられる。
 これは林の「詩」に対する戦略なのだろう。とても効果を上げているとは思う。

 林の詩に疑問があるとすれば、「詩」に対する戦略はあってもことばに対する戦略が欠けるということだ。ことばを信じすぎてはいないだろうか。
 たとえば「庭」。

太陽に葉っぱがあって花びらがあった
星空に枝があって幹があった
月の中に桶を降ろして水を汲んだ
雲が晴れると小さな庭が見えた
木陰が揺れ花が咲いて井戸があった
あなたと私は星をもいでは食べて話をした
私たちの木靴のそばには
太陽が咲いていた
母さんが私たちの名を呼んだけれど
私たちはどちらが自分の名なのか分からない

 「私たちの木靴のそばには」の「木靴」に私は驚くのである。これはいったいなんだろう。どうして「木靴」ということばが出てくるのだろう。ここには実感というものがない。いや、ことばに酔っているという不思議な実感、ことばにすればなんでも詩になるのだという感覚に酔っている、その酔いの不思議な実感だけがある。ことばを信じきったときにだけ訪れる恍惚・愉悦がある。ことばの恍惚・愉悦が「木靴」を呼び出すのである。林の肉体が呼び出すのではない。

 ここにも「詩」は存在するだろうけれど、私は、それとは違った詩を読みたい。

コメント
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