詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治『たかくおよぐや』

2007-11-26 11:59:18 | 詩集
たかやくおよぐや
廿楽 順治
思潮社、2007年10月25日発行

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 「曳舟小学校の怪」に、

するい
ってきらきらひかっているな

 という行がある。廿楽の詩は、いい意味で「ずるい」。そして、きらきらひかっている。
 何が「ずるい」かというと、まず題材が「ずるい」。たとえば「にかいや」。

ぼくのうちは(むいしきの)じてんしゃ屋だった
(なんでもかんでもうっていたからな)
となりに 左右をひらいたような
よくにたふたごのおばあさんがいて
にかいや
という駄菓子屋をひらいていた
(せかいの穴をふさぐように)
毎日ふたりならんで くさったものをうっていた

 昔の(といっても、昭和の)街の風景である。いまで言えば、「三丁目の夕陽」の世界である。こういう世界を「現代詩」で書く人はいない。題材の選び方が「ずるい」というか、こういうことは誰も詩に書いていないという、はっきりした自覚から出発している。「かしこい」のである。
 そして、その世界を、その当時の「かっこいい」ことば、子どもには理解できないけれど、大人がつかっていて、絶対的な意味があると感じられることばで批判する。「ぼくのうちは(むいしきの)じてんしゃ屋だった」の(むいしき)がそれにあたる。
 「ぼくの家は無意識の自転車屋だった」では成立しない、表記と、音とが結びついて、「過去」を「現在」の視点で批判(批評)しながら、その批判(批評)を、「過去」の「子どもの最先端(子どもの理解できない現実)」として立ち上がらせる。「(むいしきの)じてんしゃ屋」という表現は、廿楽が子どものとき聞いたことばであり、そのときは「意味」がわからなかったが、今でははっきりわかる--そういう世界のあり方が「ぼくのうちは(むいしきの)じてんしゃ屋だった」の(むいしき)という表記とともに立ち上がってくる。
 そうした詩的操作をしておいて、

(せかいの穴をふさぐように)

 という行が書かれる。「(むいしきの)じてんしゃ屋」は廿楽の聞き覚えのあることばであるけれど、(せかいの穴をふさぐように)は、たぶん廿楽が聞いたことばではなく、いま、「過去」を思い出して感じていることを表現したことばである。廿楽だけの思いであるものを、表記を、わざとひらがなまじりにすることで、(むいしきの)と同じレベルにしてしまう。溶け込ませてしまう。
 これは「かしこい」。「ずるい」。そして、そういう部分が、そういう行が、とてもひかっている。
 「左右をひらいたような」と「くさったものをうっていた」も同じように、「ずるい」。そして、ひかっている。



 それにしても、と思う。廿楽の詩を読むのは、とても疲れる。とても体力がいる。
「ぼくのうちは(むいしきの)じてんしゃ屋だった」が「ぼくの家は無意識の自転車だった」と書かれているなら、体は疲れない。ことばは頭の中をさーっと過ぎてゆく。(むいしきの)は、頭の中ではなく、体(からだ、と書いた方がいいかもしれない)のなかにとどまって、頭までゆかないのである。ことばとして整理できないものをかかえたまま、首の下に、からだとなってぶらさがっているのである。それが疲れる原因である。からだで消化しないことには、にっちもさっちもいかない。それが疲れるのである。

 こう言い換えた方がいいのかもしれない。
 「ぼくの家は無意識の自転車だった」の「無意識」は言語として流通している。社会で共有されている。もちろん個人の感覚などというのは完全には共有できないものであるけれど、なんとなくわかったつもりになっている。完全に理解はできないのだけれど、頭の中で「辞書的に」整理し、「わかった」と処理できる。
 ところが(むいしき)だと、その処理ができない。つまずくのである。音から「無意識」であるということはわかるが、「無意識」と「むいしき」では何かが違う。
 私たちは、耳で「音」を聞く。そして聞き取ったかぎりにおいては、それを「声」にすることができる。肉体を、舌を、喉をつかってことばにすることができる。「意味」がわからなくても他人に渡すことができる。(むいしき)には、そういうものが含まれている。本当はわからないのだけれど、なんとなく、そのことばで呼ばれているものがある、という感じが残っている。完全に納得していないものが残っている。その何か「声」には出してみたものの、からだのなかに取り残された何かが、(むいしき)という表記とともに立ち上がってきて、その理解もせずにつかったときのからだの印象を蘇らせる。
 だから、とても疲れる。

 さらに、その(むいしき)は、今では「無意識」であると完全に理解できからこそ、そのからだのなかで取り残された(むいしき)のかかえている不透明なものが、より重く蘇る、と言えばいいだろうか。

 ことばなんて、「意味」は存在しないのであある。ことばに「意味」などないのである。「意味」を知らずに「むいしき」という音を何度も何度もからだのなかをくぐらせる。実際に、喉と舌をつかう。そうしているうちになんとなく、それはこういうことだったのかなあ、という「空気」のようなものができる。「声」を出すということは、空気をからだのなかへ入れ、もう一度出すことだ。「空気」がだんだん汚れてきて、その汚れが見えるようになる。「むいしき」が「無意識」になる。それを「意味」として「共有」したつもりになって社会生活をしている。
 その不安というか、どうしようもない「ずれ」というか、既成のことばではなんと言っていいのかわからないもの--そういうものを、廿楽は、ていねいに描いている。ことばを、そういう領域へ追い込んでゆく。
 そのときから、「過去」が「過去」ではなく、(つまり「三丁目の夕陽」ではなく、 )現在のものになる。日本語の今の問題になる。「現代詩」になる。

コメント (1)
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