詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中宏輔「THE GATES OF DELIRIUM.」ほか

2007-11-06 11:44:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 田中宏輔「THE GATES OF DELIRIUM.」ほか(「分裂機械」19、2007年10月15日発行)
 文体がしっかりているとき、それが何を書いているかということは気にならない。内容は文体そのものに宿っているからである。

 間違って、鳥の巣のなかで目を覚ますこともあった。間違って? あなたが間違うことはない。Ghost、あなたは間違わない。転位につぐ転位。さまざまな時間と場所と出来事のあいだを。結合につぐ結合。さまざまな時間と場所と出来事の。

 書き出しの「間違って、鳥の巣のなかで目を覚ますこともあった。」には主語がない。こういう場合、日本語では「わたし」を主語とする。(敬語で書かれている文体は「わたし」ではない人間が想定されるが。)--というのは、単なる約束事であって、それを守る必要はないし、無意識の約束事を裏切ったところで、それが罪になるわけでも何でもない。
 田中は、一瞬、「わたし」という幻の主語を掲げておいて、すぐに「間違って? あなたが間違うことはない。」と主語を「あなた」(Ghost)に書き換える。
 この書き換えが絶妙である。
 「Ghost」が間違って、鳥の巣のなかで目を覚ますことはない--そう断定しているのは、鳥の巣のなかで目を覚ました主語ではない。別の主語「わたし」である。
 この短い文のなかには「Ghost」と「わたし」というふたつの主語があり、しかもそれが交錯している。交錯することで結びついている。田中のことばを使って言えば、そこには主語の「転位」と「結合」がある。そしてそれは繰り返されるのである。さまざまな場所、時間、出来事において。
 書き出しの3行で田中の詩はすべてを語っている。そして、そのすべては「意味」においてすべてというだけであって、ほんとうはすべてではない。すべてではないからこそ、田中は3行以降も延々とことばを吐き出し続ける。
 「転位」とは一種の「切断」であるが、それは「転位」と意識することで、実は別々な場を意識のなかで関連づけること、「結合」することである。「転位」と「結合」は「切断」をふくむにもかかわらず、切り離すことができない。
 途中に

既知→未知→既知→未知、あるいは、未知→既知→未知→既知の、出自の異なる連鎖が、いつの間にか一つの輪になってループする。

 ということばが出てくるが、「わたし」と「あなた」は「転位」し、「転位」することで「結合」し、連鎖し、輪になり、ループするのである。
 書き出しの文体が絶妙であったように、その文体は、最後まで乱れない。こういう乱れのない文体(一種の、意識の乱れを描いているのに、乱れない文体)が、わたしは非常に好きだ。とても気持ちがいい。



 同じ号にキキダダマママキキ「新しい道を眺める人」という作品がある。キキダダマママキキの詩にもおもしろい文体がある。

きみは肉体を所有するが、きみは
果たして重力のみを食べていたというのか

 引用したのは1連目の一部である。引用部分の「きみは肉体を所有するが」は誰もが理解できることばである。「きみ」が誰であろうが、そういう人間を想像することはむずかしくない。誰にでもわかる(りかいできる)、とは、そういうことを指していう。
 「果たして重力のみを食べていたというのか」はどうだろうか。たぶん、誰にでもわかるという文ではないだろう。なぜか。まず私たちは「重力」というものを「食べる」とは言わない。そんなものが食べられるかどうか知らない。だから、そこに書いてあることを判断する方法がない。ようするにお手上げである。
 そして、実は、こういうことは読者だけに起きるのではない。
 たぶん、その具体的な内容(?)、というか、そのことばで何を言いたかったのか、キキダダマママキキにもわからない。わからないけれど、書いてしまう--そういうことはあるのである。
 田中宏輔にしても、しっかりした文体で書いてはいるが、書いていることがわかっているかといえば、わかっていない。わかっているのは、そういう文体で、いま、こうして書いているということだけである。こういう文体で書けば、ここまでことばを吐き出してゆけるという予感だけである。何が書けるかわからずに、それでも何かが書けると予感して書いてしまうのが詩というものである。
 何が書けるかわからない、それでも書いてしまう。--そのとき、キキダダマママキキを支えているのは、

きみは肉体を所有するが、きみは
果たして重力のみを食べていたというのか

 という文体である。普通の散文では「きみは肉体を所有するが、」がひとつの文であり、「きみは果たして重力のみを食べていたというのか」がひとつの文である。それぞれに「主語」と「述語」がある。ところが、この主語と述語の関係を、キキダダマママキキはすこしずらしている。「きみは肉体を所有するが、きみは」を1行に、つまり、1文にしている。そして断絶を(改行を)挟んで「果たして重力のみを食べていたというのか」と書く。
 「きみ」という主語はかたく結びついているが、「肉体を所有する」と「重力のみを食べ」るという述語は、とんでもない断絶(改行)を抱え込んでいる。
 キキダダマママキキの書きたいことというのは、実は、この断絶である。同じ主語であっても、述語(動詞)は激しく断絶するのである。そして、そこに人間存在の苦悩の根っこがある。私たち人間(主語)は、さまざまなことをする(述語)が、そのさまざまなことのなかには「矛盾」だけではなく、「矛盾」を通り越してしまう何かわけのわからないものあるのだ。今までのことばでは言い表すことのできない「述語」の部分もあるのだ。キキダダマママキキの書きたいのは、そういうことである。
 「重力のみを食べ」る、なんて意味がわからない--読者がそういうなら、キキダダマママキキは意味がわかってたまるかというだろう。キキダダマママキキにも、それを意味がわかるようには、つまりは日常語に言い換えてしまうことはできないことがらなのだ。わからないから、わからないまま、それでもそのことばの先に何かがあるという予感に導かれて書く。
 予感を信じ、予感の中へことばを駆り立ててゆく。そして、その疾走のなかで、何かを見たと錯覚する--それが詩だ。そこにあるのは意味ではなく「文体」なのである。

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