監督 ポール・グリーングラス 出演 マット・デイモン、デヴィッド・ストラザーン、ジュリア・スタイルズ、ジョアン・アレン
傑作である。あ、と声を出す間もない傑作である。カメラのスピードがとてもいい。アップ、ミドル、ロングと次々にかわるが、観客がことばで考える瞬間(余裕ではない)を与えない。(かわされることばも非常に少ない。この映画はことばを拒絶し、視力で世界をつくりあげている。)目を引きつけ、スクリーンの中へ、目だけではなく肉体そのものをも巻き込んでしまうカメラである。
人間の目というものはとても不思議で、どんなときにも「焦点」をもっている。人込みのなかでも、私たちは「人込み」を見ると同時に「一人の人間」を見る。「人込み」のなかから「一人」を選んで、そこに焦点を当てて見るということがあるが、この映画のカメラはそういう人間の生理的な目をそのまま再現している。そのために、目がスクリーンに釘付けになるというより、肉体そのものがスクリーンのなかに引き込まれたような感じがするのである。焦点を当てて見ている部分と、焦点の域外に存在するものとの関係が、いきいきとした空間(距離感)をつくりあげる。
冒頭近くの人込み(駅)のシーン、新聞記者が射殺されるまでのシーンが特にすばらしい。カメラの焦点にあやつられるままに、ボーンのもっている感覚と観客の肉体がシンクロしてしまう。あとは、もう、観客はボーンの肉体そのものを生きることになる。あらゆる映像の断片をことばで整理するのではなく、反射神経で整理し、理解し、判断し、実行する。(繰り返すが、この映画に会話はほとんどない。とくにボーンは考えていることをことばで説明はしない。肉体の動きがボーンの思想なのだ。)
この、まるで肉眼そのもののようなカメラ(思想としての肉体となったカメラ)は、ボーンと狙撃手とのモロッコでの乱闘でもすばらしい動きをする。深作欣二の「仁義なき戦い」の手振れカメラの疾走のように、カメラそのものがまるで手足となって肉体とぶつかりあう。アクション全体を見せるのなら別の角度があるのだが、肉体との至近距離を維持し続けることで、全体は見えず、部分部分の動きが全体を想像させるという構造なのだが、このときの肉体の狙い(何をしたいか)が、脳そのものをひっかきまわし、神経を反射させる。肉体が反射神経になって動き回る感じが体に乗り移ってくる。痛さは吹き飛び、ただ生きるために反射する強い力だけが暴れ回る。
こうしたカメラに答える俳優もすばらしい。マット・デーモンは主役だから、いわば「見つめる側」なのでカメラに直接反応する演技というのはないのだが、たとえばデヴィッド・ストラザーン(「グッドナイト&グッドラック」のアンカーマン)が目を動かすその瞬間の演技。アップの目の動き。あ、人間は、たしかにそんなふうにしてたとえば相手の目の動きだけを見ている。ほかの肉体の部分も見えているのだが、ほんとうに見ているのは目の動きだけ--という感じに答える、目のアップ。その目の緊迫感。はっと感じ、頭の中をことばを越えて意識が動き回り、結論に到達する瞬間の驚くべきすばやさ。それを肉体そのもの、その動きだけで再現する演技。そういう部分が、カメラそのものの動きと重なって、スピードをどんどんアップする。
また、この映画は人間のアクションが主人公であり、マット・デイモンが動き回るヨーロッパ各地、ニューヨークの都市は舞台装置なのだが、その舞台である街をとらえるカメラもとてもいい。アクションをとっているにもかかわらず、街のにおいそのものまでも再現している。舞台の都市がかわるたびに「字幕」で、それがどの都市化ということが説明されるが、そういう説明など不要なほど、街をくっきりと描いている。その街で生きるひとの動きをきちんと取り込んでいるから、その街がそれぞれ独自の色で浮かび上がってくるのである。
シリーズものの3作目か、と軽い気持ちでいると、傑作を見逃してしまうことになる。
傑作である。あ、と声を出す間もない傑作である。カメラのスピードがとてもいい。アップ、ミドル、ロングと次々にかわるが、観客がことばで考える瞬間(余裕ではない)を与えない。(かわされることばも非常に少ない。この映画はことばを拒絶し、視力で世界をつくりあげている。)目を引きつけ、スクリーンの中へ、目だけではなく肉体そのものをも巻き込んでしまうカメラである。
人間の目というものはとても不思議で、どんなときにも「焦点」をもっている。人込みのなかでも、私たちは「人込み」を見ると同時に「一人の人間」を見る。「人込み」のなかから「一人」を選んで、そこに焦点を当てて見るということがあるが、この映画のカメラはそういう人間の生理的な目をそのまま再現している。そのために、目がスクリーンに釘付けになるというより、肉体そのものがスクリーンのなかに引き込まれたような感じがするのである。焦点を当てて見ている部分と、焦点の域外に存在するものとの関係が、いきいきとした空間(距離感)をつくりあげる。
冒頭近くの人込み(駅)のシーン、新聞記者が射殺されるまでのシーンが特にすばらしい。カメラの焦点にあやつられるままに、ボーンのもっている感覚と観客の肉体がシンクロしてしまう。あとは、もう、観客はボーンの肉体そのものを生きることになる。あらゆる映像の断片をことばで整理するのではなく、反射神経で整理し、理解し、判断し、実行する。(繰り返すが、この映画に会話はほとんどない。とくにボーンは考えていることをことばで説明はしない。肉体の動きがボーンの思想なのだ。)
この、まるで肉眼そのもののようなカメラ(思想としての肉体となったカメラ)は、ボーンと狙撃手とのモロッコでの乱闘でもすばらしい動きをする。深作欣二の「仁義なき戦い」の手振れカメラの疾走のように、カメラそのものがまるで手足となって肉体とぶつかりあう。アクション全体を見せるのなら別の角度があるのだが、肉体との至近距離を維持し続けることで、全体は見えず、部分部分の動きが全体を想像させるという構造なのだが、このときの肉体の狙い(何をしたいか)が、脳そのものをひっかきまわし、神経を反射させる。肉体が反射神経になって動き回る感じが体に乗り移ってくる。痛さは吹き飛び、ただ生きるために反射する強い力だけが暴れ回る。
こうしたカメラに答える俳優もすばらしい。マット・デーモンは主役だから、いわば「見つめる側」なのでカメラに直接反応する演技というのはないのだが、たとえばデヴィッド・ストラザーン(「グッドナイト&グッドラック」のアンカーマン)が目を動かすその瞬間の演技。アップの目の動き。あ、人間は、たしかにそんなふうにしてたとえば相手の目の動きだけを見ている。ほかの肉体の部分も見えているのだが、ほんとうに見ているのは目の動きだけ--という感じに答える、目のアップ。その目の緊迫感。はっと感じ、頭の中をことばを越えて意識が動き回り、結論に到達する瞬間の驚くべきすばやさ。それを肉体そのもの、その動きだけで再現する演技。そういう部分が、カメラそのものの動きと重なって、スピードをどんどんアップする。
また、この映画は人間のアクションが主人公であり、マット・デイモンが動き回るヨーロッパ各地、ニューヨークの都市は舞台装置なのだが、その舞台である街をとらえるカメラもとてもいい。アクションをとっているにもかかわらず、街のにおいそのものまでも再現している。舞台の都市がかわるたびに「字幕」で、それがどの都市化ということが説明されるが、そういう説明など不要なほど、街をくっきりと描いている。その街で生きるひとの動きをきちんと取り込んでいるから、その街がそれぞれ独自の色で浮かび上がってくるのである。
シリーズものの3作目か、と軽い気持ちでいると、傑作を見逃してしまうことになる。