詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

五月女素夫『月は金星を釣り』

2007-11-25 15:07:23 | 詩集
 五月女素夫『月は金星を釣り』(ミッドナイト・プレス、2007年10月25日発行、星雲社発売)
 「鳥のいない庭」の冒頭の2行は五月女のことばの動きを象徴している。

陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
暮れてゆくことだけがある時間

 「暮れているのに/暮れてゆくことだけがある」。この論理矛盾のような繊細な動き。矛盾を承知であえてその矛盾の中へ入っていこうとする動き。強引にではなく、静かに、どちらかというと自分から入っていくというのではなく、向こうが自然に開いてくれるのをまっているような、ひっそりとした感じ。向こうが五月女に気がついて、そっと招き寄せてくれるのをまっているような密やかさ……。
 「暮れている」のに「暮れていく」ということは、一種の矛盾のようだが、「暮れている」けれどもなお「暮れていく」余地があるということだろう。「暮れている」のに、それでもなお「暮れていく」ことができる余地がある--ということを識別できる強い視力(認識力)、あるいはそういうものを識別するための粘り強い精神力が五月女という存在をつくっているのかもしれない。
 そして、この「暮れているのに/暮れてゆくことだけがある」の改行のあいだには、五月女は書いてはないが、私が補ったように「それでもなお」ということばがひそんでおり、その「それでもなお」を支えるのが、五月女の精神力、ことばの粘着力なのである。
 五月女の詩には、いたるところに「それでもなお」が隠れている。

陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
(それでもなお)
暮れてゆくことだけがある時間
うすくあかるく
誰もいない
(それでもなお)
その微風になめらかに水草として揺られている樹木は
きめこまかいものを見ている
まっしろいけものが 剥製のしずけさの気体を吐き
なにも望まないと云う連れのおんなは
少し離れたところを あるいている
(それでもなお)
ひとけのない植物園の風は ますます威力をまして
無性に おわりという気がしてくる
(それでもなお)
頭上にかかる繁る枝が 揺れるたび
暮れのこる若やいだあかるさは スクリーンのように変化する
(それでもなお)
風のなかにいると
くり返しくり返し どこかへ誘われている思いがする

 括弧に入った(それでもなお)は五月女の作品には存在しない。私が補ってみたものだ。
 (それでもなお)を補ってつないだ別々の行のあいだには「論理的」なつながりはない。つながりがないからこそ、ただじっと待つ行為として(それでもなお)が存在するのである。つながるものがないからこそ、本来の連続性から逸脱して、(それでもなお)何かとつながろうとするのである。ここから五月女の粘着力がでてくる。
 五月女の詩、そのことばが、とても粘着力のある動きをするにもかかわらず、粘着力が前面に出てこないのは、(それでもなお)が五月女の意識のなかで完結しているからである。五月女のなかで完結しているから、むりやり対象のなかに侵入し、対象を改変し、同時に五月女自身も変わる、という「劇」が存在しない。五月女の詩のなかにはストーリー(物語)があるにもかかわらず、「劇」が存在しないのは、そういう理由による。「劇」はそんざいしたとしても、詩という舞台ではなく、詩に書かれなかった(それでもなお)という五月女の精神のなかでのみ存在するのだ。
 書き出しに、「暮れている」と書きながら、13行目に「暮れのこる若やいだあかるさ」と書いているように、その間に何行もことばを書きながらも、何も起きてはいない。「スクリーンのように変化する」という13行目のことばは、「暮れのこる若やいだあかるさ」の述語のようにも、14行目の「風」の修飾語のようにも受けとれるが、そういうあいまいさを利用して、五月女は、ただじっと動かずにいる。(それでもなお)という精神のなかの時間だけをとどまったまま深めてゆくのである。

 もう一度、冒頭の2行。

陽はもうこの植物園の妄想のように暮れているのに
暮れてゆくことだけがある時間

 その2行目の「ある」。「ある時間」の「ある」は「存在する」と書き換えることができる。五月女は詩のなかで、彼自身の「存在論」を書いているのである。(それでもなお)ということばとともにある精神の存在、それを浮かび上がらせるための、存在論としての詩。
 五月女はそして「存在論」を「時間」と結びつけて考えている。2行目の「時間」は書かれていないくても「意味」は通じる。「意味」はかわらない。しかし、五月女は「時間」と書かずにはいられない。五月女は「存在」は「動く」、そして「運動」が「時間」を生み出しているという認識があり、それが詩のなかにストーリー(物語、登場するものたちが動くことで、「時間」が動いていく)を呼び込むのだ。
 「存在論」をそのまま「時間論」へと重なり合わせる--それが五月女の究極の夢だろうと思う。五月女には男と女がでてきて、なにやら抒情的なことをしているが、センチメンタルに墜ちていないのは、その基本に「存在論」と「時間論」をめざした意識があるからだろう。

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マイケル・ウインターボトム監督「マイティ・ハート/愛と絆」

2007-11-25 11:55:49 | 映画
監督マイケル・ウインターボトム 出演 アンジェリーナ・ジョリー

 こんな比較のされ方はマイケル・ウインターボトムにとって不本意かもしれないが、私はどうしてもポール・グリーングラスの「ボーン・アルティメイタム」と比較して見てしまう。
 「マイティ・ハート」の方が事実をもとにしたドキュメンタリーの要素が多いのだが、なぜか絵空事の「ボーン・アルティメイタム」の方がリアルに感じるのである。なぜ「マイティ・ハート」がリアルに感じられないか。リズムがのろいからである。ひとつひとつのシーンにじっくり時間をかけている。たとえばアンジェリーナ・ジョリーが夫の殺害を知らされて泣き叫ぶシーン。迫真の演技だが、長すぎる。悲しんでいる、という事実を超えて、悲しみの質まで見せようとしているからである。役者は確かにある感情の「事実」だけではなく、その感情の「深み」を表現することが求められるし、「感情」の深みを表現するのがいい役者なのかもしれない。だがその感情の「深み」をきちんと表現しようとするあまり、感情が役者の内部で完結してしまうことがある。観客の感情ではなく、役者の感情そのものになってしまうことがある。そうなると、観客は、自分の感情をどこへ持っていっていいのか、ちょっとわからなくなる。「ふーん」という気持ちになってしまうのである。この映画では、そういうことがしばしば起きる。とてもよくわかるのだが、わかってしまうと、そこで感情は終わってしまう。
 「ボーン・アルティメイタム」は、そういうことがない。もとより「ボーン・アルティメイタム」は人間の感情の「深み」というものなど描こうとはしていないが、そんなものはどうでもいい、と感情の深みを捨て去ったところから、逆にいきいきした何か、どう呼んでいいのかわからない思いが沸き上がってくる。たとえば冒頭近くの駅のシーン。そこでは、ひたすら記者をうまく誘導し助けようとするボーンと、記者を、そしてボーンを射殺しようとするCIAの要員の駆け引きがあるだけなのだが、その感情を排した行動、動きが、感情ではないにもかかわらず感情になるのだ。思わず「やった、助かった」「あ、すごい」という思いを観客に植えつけていく。「やった」とか「あ、すごい」という感嘆は、愛する人間の死を悲しむ感情に比較すると「軽い」印象を与えるかもしれないが、感情にはそういう「理性的価値判断」が入り込む余地は本当はない。ただ一瞬一瞬が、あらゆる感情が対等に、ただ充実しているかどうかだけが問題なのである。ポール・グリーングラスはこのことを非常に熟知している。一瞬一瞬の感情の充実--というか、ぎっしりつまって、それ以外のことは存在しないという思いの一瞬はとても短い、ということをとてもよく知っていて、映画のリズムをその短さにあわせて組み立てていく。
 ポール・グリーングラスの前作「ユナイテッド93」は結末を知らない観客はたぶんほとんどいない。テロリストに乗っ取られ、墜落し、全員が亡くなってしまうことを観客は誰もが知っている。それにもかかわらず、最期の最期の瞬間まで死ぬということが実感できない。登場人物の「生きたい」という気持ちが観客に(少なくとも私に)乗り移り、飛行機が失速し、どんどん大地が近づいてくる瞬間でさえ、これは映画なのだから、「事実」とは違って、もしかしたら飛行機は態勢を立て直し全員が助かるんじゃないのか、という気持ちにさせられるのである。緊迫した短い感情、そのたたみかけるリズムが、観客を(私を)、映画ではなく、そこで動きまわっている人間の感情そのものの動きへと引き込んでしまうのである。感情の「質」(深み)ではなく、感情は動くものであるという、その「運動」へと引き込むのである。
 マイケル・ウインターボトムは人間の感情を引き止める。動いていこうとするものを引き止めることで、感情を堆積させ、その奥に深みを作り出す。その結果、重くなる。一方、ポール・グリーングラスは感情を引き止めない。思考を引き止めない。ただただ動かす。動かすことで、とまったままでは見えない何かを浮かび上がらせる。マイケル・ウインターボトムは1枚1枚の写真、その不連続の積み重ねで、物語をつくり、その不連続のあいだに「感情」では埋めることのできない「現実」というものを浮かび上がらせる。それに対して、ポール・グリーングラスは写真を連続して動かし、あたかも静止した瞬間がどこにもない、存在しているのは動くことで見えてくる一連の運動だけである--まさしく映画の動き続ける「コマ」の動きそのものの錯覚としての運動を見せ、その運動を引き起こしている感情(思考)を見せる。
 マイケル・ウインターボトムにとって現実とは「静止」であり、「とどまるときの感情」(思考)なのであるが。ポール・グリーングラスにとって現実はとどまる感情(思考)はいのちを失うことなのである。マイケル・ウインターボトムの映画がパキスタンにとどまることを出発点にしているのに対して(あるいはジャーナリズムというひとつの仕事にとどまることを出発点であると同時に到達点にしているのに対し)、ポール・グリーングラスの映画は空間も異動すれば職業も捨て去る(別人になる)ことを描いているのは、まるで二人の違いを象徴するようでもある。

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