詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウディ・アレン監督「タロットカード殺人事件」

2007-11-28 10:39:08 | 詩集
監督 ウディ・アレン 出演 ウディ・アレン、スカーレット・ヨハンソン、ヒュー・ジャックマン

 ウディ・アレンはすっかりイギリスが気に入ったようですねえ。階級社会の個人主義、他人には干渉しないという冷たい感じが楽なのかな? 他人は生きていても、自分と関係がなければ存在しないとみなすことのできる能力(?)があってはじめて、自分を笑いのめすというユーモアが生まれるのかもしれない。そういう社会では、出来事はすべて物語になる--つまり、脚色可能なもの、になる。不都合なものはなかったことにして、都合のいいことだけつなぎあわせて、「これが私の社会」として提出することができる。
 こういう社会観(世界観)がいちばんくっきりでるのが「殺人事件」。ヒュー・ジャックマンのやっていることが、まさにこれ。それをアメリカ特有のヒューマニズム、人間は全員平等、いのちはみんな平等という理想で揺さぶってみる。スカーレット・ヨハンソンがそういう役回りをしている。ウディ・アレンはそのふたりのあいだで、その露骨な衝突劇(?)を小話にしてしまう道化を演じている。
 三つのアンサンブルがなかなかしゃれている。
 特に、「お話社会」という感じで、映画そのものを「小話」にしてしまう仕掛けが、この映画にはぴったりである。ベルイマンの「死神」か、「神曲」の川下りか、死人が舟に乗りながら死んだ理由を語り合う世界と、現実(?)の世界が同じ視点で描かれ(といっても、死の世界は「死に神」によってすぐに現実ではないとわかるのだが、これはたとえば「貴族」社会が家の作りや庭園によって庶民の現実とはちがうとすぐにわかるようなものにすぎないから、私は「同じ視点で描かれ」というのだが……)、そのふたつを「物語」は自在に行き来する。
 「これは映画にすぎません、お話に過ぎません」ということわりつきで、アンサンブルを楽しんでいるのである。
 こういうときは、そうですねえ、やはりイギリス貴族の感覚で映画を楽しむことが大事なのかもしれませんねえ。相手のいっていることは嘘とわかっている。わかっているけれど、その嘘を許し、嘘のなかにでてくる個人の味わいをじっくり味わう。
 嘘というのはいっしゅの「むり」、わざとする何かなのだけれど、その背伸びのなかに不思議とおもしろい味がある。この映画では、たとえばスカーレット・ヨハンソンの水着姿とか、歯並びの矯正具をつけた姿とかの「付録」、「おまけ」とか。矯正具の感じにいらいらしながら顔を動かすスカーレット・ヨハンソンってかわいいでしょ? そういう「おまけ」をばらまきながら、庶民のまま、スカーレット・ヨハンソンがイギリスの階級社会のいわばトップに侵入してばらまく庶民の動き--その身のこなしが色っぽくていいなあ。ウディ・アレンは女優を輝かせるのがとてもうまい。どんな女優もウディ・アレンの映画にでるとうまくみえる。そうしたスカーレット・ヨハンソンの魅力を楽しむための「小話」映画だね、これは。

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廿楽順治『たかくおよぐや』(3)

2007-11-28 00:34:29 | 詩集
たかやくおよぐや
廿楽 順治
思潮社

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 詩は「意味」を書いているのではない。「現代詩はわからない」というのが一般の定説である。それは当然である。わからないから詩である。(これは詩に限らず芸術全般にあてはまる。)「意味」を破壊し、「意味」以前の状態、「意味」が生まれてくる「場」そのものを再現するのが芸術というものであり、そこには生成の運動はあっても、「意味」という固定したものは存在しない。「流通」に便利なものは存在しない。それが芸術である。

みんなちがって
みんなきもちわるい

という行が「化身」のなかにあるが、その「ちがって」いて、「きもちわるい」ものが芸術である。詩である。「ちがい」が芸術である。わざと「ちが」えるのが詩である。
 「化身」は、「意味」に還元してしまえば、立ち小便をする「おじさん」とそれを目撃したひととの「空気」を描いている。

(ちょいとなにすんだい)
なりかわってこえをかけてやったのである
衆生のあいだでよぶんな水分をだしていると
(なんまいだぶ)
いいかげん 正体をなのってしまおうか
(あんたもか)
(ちがうよ)
左右のおかしいにんげんもいるからな
だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある
(あ ねじがない)
会話のとちゅうで ばらばら
くずれてしまいなしないか
ふあんでぶすっとじぶんの蒸気がもれてしまうのだ
まだひとさまからみえるつもりでいるのかねえ
みんなちがって
みんなきもちわるい
(やだ このおじさん)
衆生にばれてしまっちゃあせんかたない
ららら とうたって
電柱から電柱へと
(なになってんだ おれ)
衣をむいみにひろげてどんでいくのである

 まるかっこのなかのことばを「声」--発せられなかった「おじさん」と「目撃者」の「声」と思って読むと情景が浮かぶだろう。つまり一般に言われる「意味」が見えてくるだろうと思う。そして、廿楽のことばが、そういう「意味」に従属してしまっていたなら、これは詩ではない。廿楽のことばが詩になっているのは、そのことばが「意味」には従属せず、もっと「からだ」そのもののなかにまで侵入して、「空気」を汚しているからである。
 4行目の(なんまいだぶ)。
 傑作である。この1行で、この作品は完全に、詩になった。

 (なんまいだぶ)はもちろん「南無阿弥陀仏」である。お経である。情景の「意味」としては、「おじさん」が立ち小便をしながら、ぶつぶつ、なむあみだぶつ、と「こえ」を漏らしたということだろうが、この音のなかにある愉悦--それがお経の愉悦、生と死のであいの愉悦を呼び覚ます。あ、お経とは、生と死の出会いの愉悦なのだと、私は感じてしまう。
 「おじさん」にとって何が死で何が生か。泥酔した「脳(頭)」が死んでおり、小便を吐き出す肉体が生きているということか。それとも制御のきかなくなった膀胱が死んでおり、それを解放している「頭」が生きているのか。どっちでもいい。そんな区別とは無関係に、小便をした瞬間に、尿が尿管を走っていく快感に酔う瞬間--生きているというほっとした感じ、あたたかな感じ--その愉悦は「なんまいだぶ」の愉悦そのものだ。
 「南無阿弥陀仏」には、そんな立ち小便の愉悦とは関係ない、もっと深遠な「意味」があるのだろうが、そういう「深遠な意味」というのは肉体にはどうでもいいことである。「深遠な意味」など、ごく少数の「頭」で引き継がれてゆくものであって、肉体はその「意味」の端っこをかじりながら、ほっと息をつく、そういうものである。それでいいのである。
 と、いうのが「空気」である。

 「空気」とはいいかげんなものである。しかし、なくてはならないものでもある。なくてはならないものだからこそ、ほとんど「いいかげん」でいいようにできているのかもしれない。ほんとうに必要なものが厳密にしかつかえないものだったら、それをつかえる人は限られてくるし、使い方がそんなに難しいのだったら、人間は生きてゆけないだろう。いいかげんであるからこそ、そこに自在に自分をだしたりひっこめたりしながら、(ちょうど立ち小便をするためにチンポをだしたりひっこめたりするようにしながら)、「空気」を呼吸するのである。

(あんたもか)
(ちがうよ)
左右のおかしいにんげんもいるからな
だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある

 この4行のおかしさ。「あんたも小便がだまんできなくなったのかい?」「ちがうよ」なんていう会話のあとに「だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある」というおしゃれな批評。あ、立ち小便をしてしまうのも、その人の姿をあらわす(さらけだしてしまう)技術なのか。ひとは、カラオケで歌を歌うことでその人の姿をあらわすこともあれば、会議で激昂して姿をあらわすこともある。立ち小便も、それと差はないのである。--というゆったりした感じ。
 「空気」を描きながら、廿楽は、そういう批評(?)で、廿楽自身の「空気」をさりげなくだしてもみせる。「空気」をそんなふうに、ちょっとかき混ぜてもみせる。おもしろいなあ、と思う。


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