新井豊美「花のかけら」(「第48回晩翠賞」パンフレット)
新井豊美は私にとってはとても不思議な詩人である。最初に読んだのは『イスロマニア』である。この詩集はとても好きで、その当時は新井豊美は私の大好きな詩人のひとりであった。だが、読むにしたがって、だんだんおもしろくなくなってきた。評論を読むとさらにおもしろくなくなってきた。非常に抽象的で、冷たい感じがするのである。
この「花のかけら」にも、その冷たさを感じる。
ここには「その」と「なに」しか書かれていない。具体的なものは書かれていない。その実、書かれているのはとてもセンチメンタルなことである。(と、私は、想像している。以下は私の想像であって、本当にそんなことが書いてあるのかどうかは知らない。)
わたし(新井)は何の花かは知らないが花を持っている。そして、その花びらを一枚一枚ちぎっている。ちぎり捨てている。恋占い、のようなものである。「愛してる、愛してない、愛してる、愛してない……」。その花がどんな結論を占いだしたのか、それはそしてどうでもいいらしい。この諦観が、あるいは悟りがまたいやらしいくらいにセンチメンタルである。占いの結論に一喜一憂すればまだかわいいセンチメンタルだが、そういう結論に一喜一憂するのはセンチメンタルだと否定して「捨てたことさえ忘れ 忘れることによって何かを与えられ」と書いてしまうところが、知性優先(知性ヒエラルキー)のセンチメンタルである。
この詩は次のようにつづく。
ちぎり捨てた花びらを見つめ、「その曲線がかつて内側に保っていたもの」へと視線を、想像力を誘う。その「内側」ということばが知性ヒエラルキーのセンチメンタルをどぎつくさらけだしている。「内側」は、どんなにふうに外形が破壊されようが、その「表」(表面)に「内側」の断片を内包している、「内側」を想像させる。つまり「内側」は決して破壊されず、生き続ける。「夢」(夢の切れはし)として。
破壊され(破壊したのは、「わたし」、花びらで「恋占い」をする「わたし」なのに)、破壊されたもののなかにある「内側」(内面、内部)の存在を感じながら、新井は、つぎのようにことばを運んで行く。
「時の残闕」「空虚の形」。人間の「内側」(精神の運動)だけが把握できるものを出してくることで、新井は新井の知性(内側)ヒエラルキーを完成させる。「時の残闕」「空虚の形」がわからない? わからないひとにはわたし(新井)の詩を読む資格はないよ、と宣言しているようである。
「ここからわたしはふたたび何かを与えられ」たものの「何か」が「何か」わからないひとは、新井の詩を読む資格はない、と宣言して、新井は、なんと最後には「瞼の裏に描かれた藍色の/花のかけらをふしぎなもののように覗き込んで」いる鳥になってしまう。鳥と一体になること、同化することが、新井の「悟り」であるらしい。
私は、こういうことばだけが「美しい」詩は、どうにも納得できない。1連目、3連目、4連目の「与えられ」「軽く」「覗き込んで」と中途半端にことばを終わらせる「余韻」というもののも大嫌いである。余韻というのは中途半端で終わるから生まれるのではなく、断ち切ってもくっきりと浮かび上がるのが余韻なのである。
新井はいつのころからか、完全に頭だけで詩を書き、知性ヒエラルキーのセンチメンタルを生きるようになった、というのが私の印象である。知性ヒエラルキーは知性を磨けばみがくほど頂点に近づくけれど、その先に、いったい何があるのだろうか。とても寒々しい感じがする。
新井豊美は私にとってはとても不思議な詩人である。最初に読んだのは『イスロマニア』である。この詩集はとても好きで、その当時は新井豊美は私の大好きな詩人のひとりであった。だが、読むにしたがって、だんだんおもしろくなくなってきた。評論を読むとさらにおもしろくなくなってきた。非常に抽象的で、冷たい感じがするのである。
この「花のかけら」にも、その冷たさを感じる。
その道のうえで
わたしは何かを捨て 行きながらそれを捨て
ちぎっては捨て さらに捨て それが何であったのか
冬の木々にならい わたしは葉を落とし
棒のようなものとなり
直立するわたしの頭上を風が渡り わたしは
捨てたことさえ忘れ 忘れることによって何かを与えられ
ここには「その」と「なに」しか書かれていない。具体的なものは書かれていない。その実、書かれているのはとてもセンチメンタルなことである。(と、私は、想像している。以下は私の想像であって、本当にそんなことが書いてあるのかどうかは知らない。)
わたし(新井)は何の花かは知らないが花を持っている。そして、その花びらを一枚一枚ちぎっている。ちぎり捨てている。恋占い、のようなものである。「愛してる、愛してない、愛してる、愛してない……」。その花がどんな結論を占いだしたのか、それはそしてどうでもいいらしい。この諦観が、あるいは悟りがまたいやらしいくらいにセンチメンタルである。占いの結論に一喜一憂すればまだかわいいセンチメンタルだが、そういう結論に一喜一憂するのはセンチメンタルだと否定して「捨てたことさえ忘れ 忘れることによって何かを与えられ」と書いてしまうところが、知性優先(知性ヒエラルキー)のセンチメンタルである。
この詩は次のようにつづく。
とはいえ それは風の形見のようなもの
抜けたオナガの青い尾羽のようなもの
割れた器のかけらほどにも役立たないもの
その曲線がかつて内側に保っていたものを想像させるとしても
切っさきは宥められていまは
意味をなさないひとつの破片 その表に
ひたすら咲きつづける それらはすべて夢の切れはし
繋ぎとめられない願い
ちぎり捨てた花びらを見つめ、「その曲線がかつて内側に保っていたもの」へと視線を、想像力を誘う。その「内側」ということばが知性ヒエラルキーのセンチメンタルをどぎつくさらけだしている。「内側」は、どんなにふうに外形が破壊されようが、その「表」(表面)に「内側」の断片を内包している、「内側」を想像させる。つまり「内側」は決して破壊されず、生き続ける。「夢」(夢の切れはし)として。
破壊され(破壊したのは、「わたし」、花びらで「恋占い」をする「わたし」なのに)、破壊されたもののなかにある「内側」(内面、内部)の存在を感じながら、新井は、つぎのようにことばを運んで行く。
というより時の残闕と呼ぶべきもので
血を流すことはなく すきとおる空虚の形をもち
ここからわたしはふたたび何かを与えられ
そのたびにわたしはすこしずつ軽く
鳥たちが群れているクヌギの梢ではいましも
一羽がさえずり 一羽は翼をひろげ 一羽は目を閉じて
瞼の裏に描かれた藍色の
花のかけらをふしぎなもののように覗き込んで
「時の残闕」「空虚の形」。人間の「内側」(精神の運動)だけが把握できるものを出してくることで、新井は新井の知性(内側)ヒエラルキーを完成させる。「時の残闕」「空虚の形」がわからない? わからないひとにはわたし(新井)の詩を読む資格はないよ、と宣言しているようである。
「ここからわたしはふたたび何かを与えられ」たものの「何か」が「何か」わからないひとは、新井の詩を読む資格はない、と宣言して、新井は、なんと最後には「瞼の裏に描かれた藍色の/花のかけらをふしぎなもののように覗き込んで」いる鳥になってしまう。鳥と一体になること、同化することが、新井の「悟り」であるらしい。
私は、こういうことばだけが「美しい」詩は、どうにも納得できない。1連目、3連目、4連目の「与えられ」「軽く」「覗き込んで」と中途半端にことばを終わらせる「余韻」というもののも大嫌いである。余韻というのは中途半端で終わるから生まれるのではなく、断ち切ってもくっきりと浮かび上がるのが余韻なのである。
新井はいつのころからか、完全に頭だけで詩を書き、知性ヒエラルキーのセンチメンタルを生きるようになった、というのが私の印象である。知性ヒエラルキーは知性を磨けばみがくほど頂点に近づくけれど、その先に、いったい何があるのだろうか。とても寒々しい感じがする。