相生葉留実「沼について」(「鰐組」225、2007年12月01日発行)
沼について何人かが語り合っている。その後半がおもしろい。
「なんとなく」「思い込んでいた」「ので」「意外に思った」。
私たちは何かについてなんとなく思い込んでいることがある。実際を知らないで思い込んでいることかある。「先入観」である。それが破られたとき「意外に思った」という現象が起きる。
その後も、相生のなんとなく思い込んでいたことが次々に否定される。そのときの変化がとてもおもしろいのである。沼の水が冷たいと知らされたとき「意外に思った」だけだったが、「沼の重さ」に関しては「意外に思った」と「先入観」が引き下がらない。「おかしいではないか」と食い下がる。(同じ「下がる」ということばをつかいながら「引き下がる」と「食い下がる」ではまったく違うなあ、と私は一瞬脱線してしまうが……。それは、こうやって、括弧に閉じておいて。)食い下がる根拠は、
である。
これがまた、実におもしろい。「重さ」の測り方には器具を使ったものとそうでないものがある。また「手秤」という肉体を使った測り方や、目分量というものもあるが、こうしたものには「人間の経験」がかかわっている。これも一種の「器具」に当たるかもしれない。「経験」というのは肉体に備わった「器具」なのである。相生はそういうものをも頼りにしていない。相生の反論は「計算して」に根拠がある。「思い込み」を訂正するのは「計算」(いわば、頭)であると主張している。そして食い下がっている。
相生の食い下がり方--まっとうでしょ? 正しいと思うでしょ? 論理的だと思うでしょ?
私も正しいし、論理的な反論だと思う。測量士の言っていることは変だと思う。
そう思いながら、そうなのかな? という疑問も湧き出てくる。水の重さを計算して測るというのは、沼の容積を求め、それを1リットル=1キロに換算して求めるということだが、重さというのはそれだけでいいのだろうか。それ以外のものを含んでいないだろうか。よどんだ水。透明な水。生ぬるい水。凍るような水。その印象が私たちに与えるものが計算では除外されるけれど、それでいいのだろうか。そしてその印象には、たとえば沼を取り囲んでいる土の状態、草木の状態も影響しているかもしれない。それは計算に含まれないけれど、いいのだろうか。
相生が食い下がることによって、そういうもの、奇妙な疑問がどこからとも湧いて来る。そして、その疑問の背後にあるのは、というか背後そのものは「なんとなく」「思い込んでいた」なのである。私が「なんとなく」「思い込んでいた」ものなのである。
相生は、そういう世界へは入って行かず「計算」(頭)のなかへ入って行くのだが、そのときの進入の照らし返しとして、奇妙な疑問が私の中に生じるだけなのかもしれないが、そういう「照らし返し」の運動を引き起こすことばの動きが相生のことばのなかにあるということだろうと思う。
という1行が、最後になって、沼の底から湧き水のように立ち上って来る。そんな仕掛け(?)が隠されているのかもしれない。
には、「ちがう、それは変だ」と言い張っている相生の気持ちが絡みついている。その絡みつき方が、おもしろい。いろいろなことを考えさせてくれる。
沼について何人かが語り合っている。その後半がおもしろい。
誰かが沼に手をいれてみたら
一年前と同じように冷たい水だと言った
なんとなく生温かいと思い込んでいたので以外だった
今日は昨日より全体に重くなっている
沼に体重があるという
どこを測ってそういっているのかわからないのだが
測量士が沼の重さを知っていると言っていいた
沼の総量を言っているの
いやちがう外側の土で囲われている部分
水を逃がさないようにしている全体が沼の重さだという
どうやって測ったの
水の重さなら計算して測れるけれど
といくら言っても
ちがう 沼の重さだと言い張っている
「なんとなく」「思い込んでいた」「ので」「意外に思った」。
私たちは何かについてなんとなく思い込んでいることがある。実際を知らないで思い込んでいることかある。「先入観」である。それが破られたとき「意外に思った」という現象が起きる。
その後も、相生のなんとなく思い込んでいたことが次々に否定される。そのときの変化がとてもおもしろいのである。沼の水が冷たいと知らされたとき「意外に思った」だけだったが、「沼の重さ」に関しては「意外に思った」と「先入観」が引き下がらない。「おかしいではないか」と食い下がる。(同じ「下がる」ということばをつかいながら「引き下がる」と「食い下がる」ではまったく違うなあ、と私は一瞬脱線してしまうが……。それは、こうやって、括弧に閉じておいて。)食い下がる根拠は、
水の重さなら計算して測れるけれど
である。
これがまた、実におもしろい。「重さ」の測り方には器具を使ったものとそうでないものがある。また「手秤」という肉体を使った測り方や、目分量というものもあるが、こうしたものには「人間の経験」がかかわっている。これも一種の「器具」に当たるかもしれない。「経験」というのは肉体に備わった「器具」なのである。相生はそういうものをも頼りにしていない。相生の反論は「計算して」に根拠がある。「思い込み」を訂正するのは「計算」(いわば、頭)であると主張している。そして食い下がっている。
相生の食い下がり方--まっとうでしょ? 正しいと思うでしょ? 論理的だと思うでしょ?
私も正しいし、論理的な反論だと思う。測量士の言っていることは変だと思う。
そう思いながら、そうなのかな? という疑問も湧き出てくる。水の重さを計算して測るというのは、沼の容積を求め、それを1リットル=1キロに換算して求めるということだが、重さというのはそれだけでいいのだろうか。それ以外のものを含んでいないだろうか。よどんだ水。透明な水。生ぬるい水。凍るような水。その印象が私たちに与えるものが計算では除外されるけれど、それでいいのだろうか。そしてその印象には、たとえば沼を取り囲んでいる土の状態、草木の状態も影響しているかもしれない。それは計算に含まれないけれど、いいのだろうか。
相生が食い下がることによって、そういうもの、奇妙な疑問がどこからとも湧いて来る。そして、その疑問の背後にあるのは、というか背後そのものは「なんとなく」「思い込んでいた」なのである。私が「なんとなく」「思い込んでいた」ものなのである。
相生は、そういう世界へは入って行かず「計算」(頭)のなかへ入って行くのだが、そのときの進入の照らし返しとして、奇妙な疑問が私の中に生じるだけなのかもしれないが、そういう「照らし返し」の運動を引き起こすことばの動きが相生のことばのなかにあるということだろうと思う。
なんとなく生温かいと思い込んでいたので意外に思った
という1行が、最後になって、沼の底から湧き水のように立ち上って来る。そんな仕掛け(?)が隠されているのかもしれない。
ちがう 沼の重さだと言い張っている
には、「ちがう、それは変だ」と言い張っている相生の気持ちが絡みついている。その絡みつき方が、おもしろい。いろいろなことを考えさせてくれる。