素描、その果てしなさとともに吉田 広行思潮社このアイテムの詳細を見る |
吉田広行「来るべきしろいノートのための、素描」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出は『素描、その果てしなさとともに』2006年12月発行)
詩はひとつの破壊である。たとえば昨日取り上げた大岡信の「ニーナさん」には文体の破壊(破調)があり、「批評家」ということばの破壊がある。破壊の瞬間に、その破壊のなかから生成する何かがある。一種の自由がある。ことばが加速し、それまでのことばを超越していく。そういう動きがある。
吉田広行「来るべきしろいノートのための、素描」はむしろ加速しない、加速を拒否するという自由を選ぶ。停滞でもなければ後退でもない。加速しないのだ。1行目からして象徴的である。
なにかに、遅れること。遅れることの、ゆるやかさにおいて。
何かが先行する。それから「遅れる」。そして、「遅れる」ということばのなかで吉田はさらに「遅れる」。もう、先行するものなど、吉田の意識のなかにはない。「遅れること。遅れることの、」という繰り返しが明らかにするのは、吉田のことばが先行するものを追いかけることを拒絶し、「遅れ」のなかで、どれだけ「遅れ」続けることができるかを明らかにしようとする欲望である。「遅れ続ける」--その「持続」が問題になる。
その「持続」のひとつの性質として「ゆるやかさ」がある。不透明さがある。速いものもとらえることはむずかしいが、「ゆるやか」なものもとらえることがむずかしいことがある。その動きが「ゆるやか」すぎると、動いているかどうかわからない。
「遅れ」、しかもそのなかの「ゆるやかさ」。それはほとんど停滞に等しいかもしれないが、停滞ではない--そのことを明確にするために、吉田は句読点「。」「、」を多用する。それはまるで、吉田のことばが停滞しているのではなく動いていることを明確にするための刻印のようである。1センチ進んだ、2センチ進んだ、と定規ではかって、その1センチずつに印をつけているような感じで、句読点が差し挟まれる。
なにかに、遅れること。遅れることの、ゆるやかさにおいて。
あなたが、透明な、塵のうつわであることにおいて。
その、微かさと、やわらかさにおいて。
よろこぶ縁であり、かなしむ縁であること、において。
4行目「よろこぶ縁であり、かなしむ縁であること、において。」の「こと」と「において」のあいだの読点「、」はそれまでの読点が1センチ刻みだとすれば、その1センチの下の単位、ミリの刻みである。1行目から3行目まで「……において」と繰り返すことで一種のリズムが生まれ、そのリズムの結果としてことばがリズムになれ、加速する。その加速を、単位を切り下げることで、もう一度「遅れ」のなかの「遅れ」へと遅れようとしているのである。(同じことが「……として」という形の行が繰り返される数行先にもあらわれる。)
この吉田のことばにはもうひとつの特徴がある。「遅れ」は単位の切り下げだけではないのである。いま引用した4行だけからでもそのことは指摘できるが、読み進むと吉田自身が、その特徴を説明していることばが出て来る。
とるに足りない、にごり水のような、ものとして。木片として。
どこまでも続く、きれぎれの、接線として。
「接線」の「接」。それは「接続」の「接」でもある。(詩の後半には「かろうじて接ぎたそうとする、ものだから」という「接続」にむすびつくことばのつかい方でもう一度つかわれている。)
「遅れる」。そして、その内部においてさらに遅れ、その遅れを明確にするために、ひとつひとつを単位として区切りながら持続する。その瞬間にあらわれる「接点」。句読点は、単位の区切りであり、同時に接点なのである。
「……において」と「……、において」という表現が明らかにしているは、ことばの接続のなかにも「接点」があり、それを意識することができるという意識の存在である。「……において」はかならずしもぴったりとくっついているわけではない。そこにも「接点」というものがあるのだ。ぴったりくっついているはずのものにも「接点」があるとすれば、くっついていないものにも「接点」があるかもしれない。いままで「接点」を認識できなかったものにも本当は「接点」があるかもしれない。そして、実際に、そういうものはあり、それは速いスピードでは見えて来なかった種類のものである。
吉田は「遅れ」をさらに遅れ、どんどんスピードを微分化することで、新しい「接点」を見つけ出し、そこから「接線」を伸ばしはじめる。それは、もう最初に先行していた「なにか」とは無関係に広がっていく。そのひろがりに限界はない。果てしない。
この無関係さ、あいまいさ、はてしなさ--明確なものを拒絶し、意味になることを拒絶する破壊力--しずかな破壊力に、吉田の詩がある。吉田は、「遅れ」ることで先行するものと吉田の関係を破壊し、同時に、遅れないで動いてしまったときは見えなかった存在を誕生させるのである。はてしなさを誕生させるのである。
まねをしたくなるような、魅力的な文体である。