詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スザンネ・ピア監督「ある愛の風景」

2007-12-08 12:38:29 | 映画
監督 スザンネ・ピエ 脚本 アナス・トーマス・イェンセン 出演 コニー・ニールセン、ウルリッヒ・トムセン、ニコライ・リー・コス

 デンマーク版「ディアハンター」という内容の映画だが、印象はまったく違う。戦場よりも家庭に重心が置かれている。夫がアフガニスタンへ行く。戦死の知らせが届く。女がこども二人をかかえて生きている。その女と、夫の弟が親しくなる。こどもたちも弟にこころを開いて行く。そこへ戦死したはずの夫が帰ってくる。過酷な体験が夫の人格を変えてしまっている。女とも、こどもたちとも距離ができる。その距離、家庭のなかの「空気」のゆれをこの映画はていねいに描いている。
 どんなことでもそうだが、影響が一番大きくあらわれるのは弱者である。この映画ではこどもである。こどもには理解できることと理解できないことがある。「頭」で、いま起きていることを整理できないことがある。しかし、「頭」では整理できないが、「こころ」がなにかを感じとってしまい、「頭」を経由しないで、「こころ」が肉体を動かしてしまう。
 アフガンに出兵する前、最後の別れのシーンで、二人のこどものうち、姉の方が父に距離をとる。うまく「いってらっしゃい」が言えない。きちんと「いってらっしゃい」をいわなければならないのはわかっているが、言えないのだ。
 戦死の知らせを受けての葬儀のシーンにも似たシーンがある。姉は喪服を着ることを拒む。父の死を受け入れたくないのだ。母は最初、姉に喪服を着せようとするが、あきらめる。そして、母自身も喪服を平服に着替え、葬儀に参列する。
 このあたりから、こどもたちが母親の思いを代弁する形でこの映画が展開していることがわかる。
 妻は帰ってきた夫の異変に気がつく。だが「頭」で夫は戦場で特異な体験をしてきてその影響を受けている、それを受け入れなければならない、と判断し、行動する。一方、こどもたちは、父親が前にもまして「かたく」なったという印象だけをもち、とまどう。冗談も通じなくなる。うまくなじめない。こわい、と感じるようになる。たのしく遊んでいたぶらんこも、父の姿を見ただけで、遊べなくなる。こわくて、身構えてしまうのだ。
 そして、家族団欒の場で、父と母のあいだを裂くような嘘までつく。
 これは、すごい。すごい脚本である。
 いちど壊れかけたものは徹底的に破壊してしまわなければ、きちんと組み立て直すことはできない--という人間関係をテーマにして、その重要な役割を、こどもの傷つきやすいこころに代弁させる。本能的な嘘までつかせる。その嘘は、父の疑念そのものをことばにしたものである。誰かがそれをいわなければならない。父が言わない。だからそれをこども(姉)が言う。また女がこころの奥底に隠している夢でもある。こどものなかで、そのこころのなかで「頭」では理解できないおとなたちの「声」が入り乱れ、出口をもとめて暴れている。それは、いわば、家族全体のピリピリした空気そのものなのである。
 男と女がいる。そのあいだにある「空気」(雰囲気、関係がつくりだすさまざまな距離)。男と女のあいだにこどもがいるとき、こどもは「空気」のように二人の関係を浮かび上がらせる。そして、そのこどもの「空気」、濃縮した「空気」は「頭」で整理されていないだけに、直接的に大人の肉体に触れてくる。おとなの肉体の発するものを増幅させる。
 (こうした関係は、別の部分にもあらわれる。男はアフガンで捕虜と出会う。その男は非常に弱々しいが、それはそのまま、かれがデンマークに残してきた乳飲み子の息子の反映である。)
 男と女、戦争と男--を描いているようで、そこにこどもをていねいにもぐりこませることで、それは男と女を超えて、家族を描き、そのまま世界を描いている。国家を、世界を射程にいれた脚本であり、それを声高にならず、常に男と女の関係にひきもどしながら、ていねいにていねいに映像を積み重ねる。
 俳優陣も、男を女を演じながら、そのこどもの視点、こどもの欲望のようなものを吸収し発散させるようにして「空気」そのものをつくりだしている。
 男が刑務所に入り、女が男に会いに行き、その異質な「空気」のなかで、もう一度「空気」をつくり直す--その過程をとてもていねいに描いたいい映画だ。

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阪本つや子「くず芋(一九四四年)」

2007-12-08 11:17:13 | 詩(雑誌・同人誌)
 阪本つや子「くず芋(一九四四年)」(「すてむ」39、2007年11月25日発行)
 戦時中の「買い出し」の体験を書いている。その2連目。

 小さい噛みに描かれた地図の皺を伸ばすと道はそれだけ伸びる

 この1行にこころを奪われた。遠いのである。その遠さが、地図を広げた瞬間、目に見える形になって迫ってくる。地図を広げようと広げまいと、実際の道は伸び縮みはしない。けれども肉体のなかで伸び縮みをする。伸び続ける。

 小さい噛みに描かれた地図の皺を伸ばすと道はそれだけ伸びる いつも足の裏が燃えた 口の奥に湧水の夢の音がする

 伸びた道は肉体の感覚を、その道に沿って伸ばす。道を歩くのか、肉体の記憶を上書きするように歩くのか。その肉体の、上書きの、上書き。常にいまある肉体の感覚を、より苦しい感覚で塗り替えていくことができたときだけ、いのちはつながる--そういうことを阪本はていねいに書き続けている。地図の皺が伸びるように、肉体の感覚の皺も常に伸ばされ、その触手はつねに新しいものをつかんでくる。知っているけれど、常に新しい苦しみと、それを乗り越えるための夢、そうした夢が覚醒させるさらなる苦しみ、悲しみを。--それはたたまれ、伸ばされ、さらにたたまれては伸ばされる地図のようでもある。
 「買い出し」が成功したあとは、次のように描かれる。詩の最終行。

夕暮れの帰路は近く荷は軽く耳の後に翼の透明な羽搏きが聴こえた

 実際の道は同じ距離でも、それは短く感じる。そして芋を背負っているから実際は荷は重いはずなのに、逆に軽く感じる。買い出しが成功しなかったら、袋が空っぽでもそれは重く感じる。--そうした肉体の感覚がていねいにあがかれているからこそ、途中にはさまれる批判が力あふれるものになる。

お国の為だって? お国ってなんなの? あたし達の為じゃないみたい

 「お国」は肉体を持たない。戦場への距離は肉体ではなく「数字」ではかられる。戦場での肉親の死は血のつながりを、肉のつながりを無視して「数字」で語られる。戦場から離れた日本の国内においても、人間はひとりとひりの肉体を持った存在ではなく「数字」で語られる。
 そうした「数字」を乗り越えるために、肉体が必要である。ことばは常に肉体をくぐりぬけることで真実になる。真実は「お国」の数え上げる「事実」とは異なる。そのことを阪本の詩はいつも語りかけてくる。

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