監督 スザンネ・ピエ 脚本 アナス・トーマス・イェンセン 出演 コニー・ニールセン、ウルリッヒ・トムセン、ニコライ・リー・コス
デンマーク版「ディアハンター」という内容の映画だが、印象はまったく違う。戦場よりも家庭に重心が置かれている。夫がアフガニスタンへ行く。戦死の知らせが届く。女がこども二人をかかえて生きている。その女と、夫の弟が親しくなる。こどもたちも弟にこころを開いて行く。そこへ戦死したはずの夫が帰ってくる。過酷な体験が夫の人格を変えてしまっている。女とも、こどもたちとも距離ができる。その距離、家庭のなかの「空気」のゆれをこの映画はていねいに描いている。
どんなことでもそうだが、影響が一番大きくあらわれるのは弱者である。この映画ではこどもである。こどもには理解できることと理解できないことがある。「頭」で、いま起きていることを整理できないことがある。しかし、「頭」では整理できないが、「こころ」がなにかを感じとってしまい、「頭」を経由しないで、「こころ」が肉体を動かしてしまう。
アフガンに出兵する前、最後の別れのシーンで、二人のこどものうち、姉の方が父に距離をとる。うまく「いってらっしゃい」が言えない。きちんと「いってらっしゃい」をいわなければならないのはわかっているが、言えないのだ。
戦死の知らせを受けての葬儀のシーンにも似たシーンがある。姉は喪服を着ることを拒む。父の死を受け入れたくないのだ。母は最初、姉に喪服を着せようとするが、あきらめる。そして、母自身も喪服を平服に着替え、葬儀に参列する。
このあたりから、こどもたちが母親の思いを代弁する形でこの映画が展開していることがわかる。
妻は帰ってきた夫の異変に気がつく。だが「頭」で夫は戦場で特異な体験をしてきてその影響を受けている、それを受け入れなければならない、と判断し、行動する。一方、こどもたちは、父親が前にもまして「かたく」なったという印象だけをもち、とまどう。冗談も通じなくなる。うまくなじめない。こわい、と感じるようになる。たのしく遊んでいたぶらんこも、父の姿を見ただけで、遊べなくなる。こわくて、身構えてしまうのだ。
そして、家族団欒の場で、父と母のあいだを裂くような嘘までつく。
これは、すごい。すごい脚本である。
いちど壊れかけたものは徹底的に破壊してしまわなければ、きちんと組み立て直すことはできない--という人間関係をテーマにして、その重要な役割を、こどもの傷つきやすいこころに代弁させる。本能的な嘘までつかせる。その嘘は、父の疑念そのものをことばにしたものである。誰かがそれをいわなければならない。父が言わない。だからそれをこども(姉)が言う。また女がこころの奥底に隠している夢でもある。こどものなかで、そのこころのなかで「頭」では理解できないおとなたちの「声」が入り乱れ、出口をもとめて暴れている。それは、いわば、家族全体のピリピリした空気そのものなのである。
男と女がいる。そのあいだにある「空気」(雰囲気、関係がつくりだすさまざまな距離)。男と女のあいだにこどもがいるとき、こどもは「空気」のように二人の関係を浮かび上がらせる。そして、そのこどもの「空気」、濃縮した「空気」は「頭」で整理されていないだけに、直接的に大人の肉体に触れてくる。おとなの肉体の発するものを増幅させる。
(こうした関係は、別の部分にもあらわれる。男はアフガンで捕虜と出会う。その男は非常に弱々しいが、それはそのまま、かれがデンマークに残してきた乳飲み子の息子の反映である。)
男と女、戦争と男--を描いているようで、そこにこどもをていねいにもぐりこませることで、それは男と女を超えて、家族を描き、そのまま世界を描いている。国家を、世界を射程にいれた脚本であり、それを声高にならず、常に男と女の関係にひきもどしながら、ていねいにていねいに映像を積み重ねる。
俳優陣も、男を女を演じながら、そのこどもの視点、こどもの欲望のようなものを吸収し発散させるようにして「空気」そのものをつくりだしている。
男が刑務所に入り、女が男に会いに行き、その異質な「空気」のなかで、もう一度「空気」をつくり直す--その過程をとてもていねいに描いたいい映画だ。
デンマーク版「ディアハンター」という内容の映画だが、印象はまったく違う。戦場よりも家庭に重心が置かれている。夫がアフガニスタンへ行く。戦死の知らせが届く。女がこども二人をかかえて生きている。その女と、夫の弟が親しくなる。こどもたちも弟にこころを開いて行く。そこへ戦死したはずの夫が帰ってくる。過酷な体験が夫の人格を変えてしまっている。女とも、こどもたちとも距離ができる。その距離、家庭のなかの「空気」のゆれをこの映画はていねいに描いている。
どんなことでもそうだが、影響が一番大きくあらわれるのは弱者である。この映画ではこどもである。こどもには理解できることと理解できないことがある。「頭」で、いま起きていることを整理できないことがある。しかし、「頭」では整理できないが、「こころ」がなにかを感じとってしまい、「頭」を経由しないで、「こころ」が肉体を動かしてしまう。
アフガンに出兵する前、最後の別れのシーンで、二人のこどものうち、姉の方が父に距離をとる。うまく「いってらっしゃい」が言えない。きちんと「いってらっしゃい」をいわなければならないのはわかっているが、言えないのだ。
戦死の知らせを受けての葬儀のシーンにも似たシーンがある。姉は喪服を着ることを拒む。父の死を受け入れたくないのだ。母は最初、姉に喪服を着せようとするが、あきらめる。そして、母自身も喪服を平服に着替え、葬儀に参列する。
このあたりから、こどもたちが母親の思いを代弁する形でこの映画が展開していることがわかる。
妻は帰ってきた夫の異変に気がつく。だが「頭」で夫は戦場で特異な体験をしてきてその影響を受けている、それを受け入れなければならない、と判断し、行動する。一方、こどもたちは、父親が前にもまして「かたく」なったという印象だけをもち、とまどう。冗談も通じなくなる。うまくなじめない。こわい、と感じるようになる。たのしく遊んでいたぶらんこも、父の姿を見ただけで、遊べなくなる。こわくて、身構えてしまうのだ。
そして、家族団欒の場で、父と母のあいだを裂くような嘘までつく。
これは、すごい。すごい脚本である。
いちど壊れかけたものは徹底的に破壊してしまわなければ、きちんと組み立て直すことはできない--という人間関係をテーマにして、その重要な役割を、こどもの傷つきやすいこころに代弁させる。本能的な嘘までつかせる。その嘘は、父の疑念そのものをことばにしたものである。誰かがそれをいわなければならない。父が言わない。だからそれをこども(姉)が言う。また女がこころの奥底に隠している夢でもある。こどものなかで、そのこころのなかで「頭」では理解できないおとなたちの「声」が入り乱れ、出口をもとめて暴れている。それは、いわば、家族全体のピリピリした空気そのものなのである。
男と女がいる。そのあいだにある「空気」(雰囲気、関係がつくりだすさまざまな距離)。男と女のあいだにこどもがいるとき、こどもは「空気」のように二人の関係を浮かび上がらせる。そして、そのこどもの「空気」、濃縮した「空気」は「頭」で整理されていないだけに、直接的に大人の肉体に触れてくる。おとなの肉体の発するものを増幅させる。
(こうした関係は、別の部分にもあらわれる。男はアフガンで捕虜と出会う。その男は非常に弱々しいが、それはそのまま、かれがデンマークに残してきた乳飲み子の息子の反映である。)
男と女、戦争と男--を描いているようで、そこにこどもをていねいにもぐりこませることで、それは男と女を超えて、家族を描き、そのまま世界を描いている。国家を、世界を射程にいれた脚本であり、それを声高にならず、常に男と女の関係にひきもどしながら、ていねいにていねいに映像を積み重ねる。
俳優陣も、男を女を演じながら、そのこどもの視点、こどもの欲望のようなものを吸収し発散させるようにして「空気」そのものをつくりだしている。
男が刑務所に入り、女が男に会いに行き、その異質な「空気」のなかで、もう一度「空気」をつくり直す--その過程をとてもていねいに描いたいい映画だ。