城戸朱理「世界-海」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「文学界」2007年08月号)
どうしても魅力を感じることができない詩人というものがいる。たとえば城戸朱理がそのひとりである。
これは西脇の語法である。「ambarvalia」の「天気」「太陽」がすぐに蘇る。もちろん城戸は「態と」(西脇の詩のキーワード)西脇を感じさせるように書いているのである。城戸はいつでも「歴史」を視野に入れて詩を書いている。それは西脇以降、あたりまえのことなので、「歴史」を視野に入れながらことばを動かすということ自体が気に入らないわけではない。(むしろ、「歴史」を視野に入れていない詩、そういう詩を書くひとの方が私には、気に食わないことが多い。)
城戸のことばの何が気に食わないかといえば、その「音楽」である。西脇の詩にある「音楽」が欠如している。
もちろんどんな詩にも(ことばにも)音楽自体はあるのだが、城戸の場合は、その組み合わせがとてもセンチメンタルで、私はときどきぞっとしてしまうのである。西脇が拒絶することで作り上げた音楽が、どこにその残骸があったのか不思議でしようがないのだが、城戸のことばのなかに唐突にあらわれ、ことばをねばねばにする。
西脇は破壊の諧調の美しさを音楽にしたが、城戸は、破壊をこばみ、亀裂、綻びをせっせっとセンチメンタルで繋ぎ止めていく。壊しているつもりなのかもしれないけれど、そこには壊れたものが元の形をもとめている未練のようなものがねばねばしている。
こんなことばの選択は西脇にはない。こんなことばの運動は西脇にはない。こんな行を西脇は書かない。--だからこそ、それが城戸の個性である、という評価の仕方があるかもしれないが、ここで「個性」ということばを登場させてしまえば、もう西脇が必要ではなくなる。個性なんて関係ない。個性(個性神話)を破壊して行くこと--そこにこそ西脇の詩のおもしろさがある。(エリオットも同じだろう。)
個性を否定する詩の語法に準拠しながら、個性(城戸のセンチメンタリズム)を一方で擁護するのであれば、これは詩法(詩論)として完全に矛盾していることになるだろう。
どうしても魅力を感じることができない詩人というものがいる。たとえば城戸朱理がそのひとりである。
「壊れた心臓」のような花が咲き
樫の木を夏が昇っていくころ
陽光は大気と衝突して少し速度をゆるめ
誰かの心のように屈折しながら
子供たちの影を伸ばしていく
これは西脇の語法である。「ambarvalia」の「天気」「太陽」がすぐに蘇る。もちろん城戸は「態と」(西脇の詩のキーワード)西脇を感じさせるように書いているのである。城戸はいつでも「歴史」を視野に入れて詩を書いている。それは西脇以降、あたりまえのことなので、「歴史」を視野に入れながらことばを動かすということ自体が気に入らないわけではない。(むしろ、「歴史」を視野に入れていない詩、そういう詩を書くひとの方が私には、気に食わないことが多い。)
城戸のことばの何が気に食わないかといえば、その「音楽」である。西脇の詩にある「音楽」が欠如している。
もちろんどんな詩にも(ことばにも)音楽自体はあるのだが、城戸の場合は、その組み合わせがとてもセンチメンタルで、私はときどきぞっとしてしまうのである。西脇が拒絶することで作り上げた音楽が、どこにその残骸があったのか不思議でしようがないのだが、城戸のことばのなかに唐突にあらわれ、ことばをねばねばにする。
西脇は破壊の諧調の美しさを音楽にしたが、城戸は、破壊をこばみ、亀裂、綻びをせっせっとセンチメンタルで繋ぎ止めていく。壊しているつもりなのかもしれないけれど、そこには壊れたものが元の形をもとめている未練のようなものがねばねばしている。
誰かの心のように屈折しながら
こんなことばの選択は西脇にはない。こんなことばの運動は西脇にはない。こんな行を西脇は書かない。--だからこそ、それが城戸の個性である、という評価の仕方があるかもしれないが、ここで「個性」ということばを登場させてしまえば、もう西脇が必要ではなくなる。個性なんて関係ない。個性(個性神話)を破壊して行くこと--そこにこそ西脇の詩のおもしろさがある。(エリオットも同じだろう。)
個性を否定する詩の語法に準拠しながら、個性(城戸のセンチメンタリズム)を一方で擁護するのであれば、これは詩法(詩論)として完全に矛盾していることになるだろう。