詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「斧の平和」

2007-12-03 10:49:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 野村喜和夫「斧の平和」(「hotel 」18、2007年10月20日発行)

 リチャード・ダッドの絵のことから書き起こされている。野村は「童話作家入神の腕前」というタイトルで紹介しているが「The Fairy Feller's Master Stroke(お伽の樵の入神の一撃)」の絵のことだろうと思って読み進めた。
 この絵の世界を野村はどんなふうに描くかというと。

駐車場の奥間で行くと、とある車の後部座席に、獣のように戯れる男女の影がうごめく。男の腹のうえで女がペニスに指をそえてくわえている。(原文の「くわえ」は口偏に至)
 という状況と重ね合わせて語る。男(私)と女がセックスをしている。それを別の男が包丁で襲おうとしている。その瞬間とダッドの絵を重ねるのである。
 そしてさらにつづける。

 実は、メキシコの詩人オクタビオ・パスもその『大いなる文法学者の猿』という著作のなかでこのダッドの絵を取り上げていて、「木樵と画家とを同一視したい気持ちを私は押えがたい。ダッドが精神病院送りとなった理由は、郊外にハイキングに行った際、突然強度の発作に襲われて父親を斧で叩き殺してしまったからだ。木樵は同じ行為を繰り返そうとしているわけだが、その象徴的繰り返しの結果は、もとの行為がもたらした結果とは正反対になる」と述べている。すなわち榛の実が割られて、魔法は解かれる。
 周囲の人たちは、その決定的瞬間をいまかいまかと待ちかまえているわけだ。しかし同時に、そういう瞬間は永遠に訪れないだろうという気もする。つまり、じっさいに斧が振り下ろされてしまうしまうことは、永遠にないだろうと。そのふたつの可能性のはざまの息苦しさが、ダッドの絵のすべてだ。

 「そのふたつの可能性のはざまの息苦しさ」。
 このことばを書きたいために、野村は、あれこれと仕掛けをしているのである。つまり、西脇順三郎がつかったことばでいえば「態と」、駐車場でのカーセックスとか三角関係とか、男女のなかの笑い話になるようなこととか。そういう仕掛けで、絵にたいするまっすぐな批評を隠している。照れ隠し、というよりも、これは、こんなふうにも語ることができるという一種の「話術」の披露である。オクタビオ・パスのことばにも野村は影響を受けている。だからそれをそのまま引用もしているのだが、その引用もセックスのなかにかき消して、あくまでもセックスの瞬間と重ねてみせようとしている。
 「そのふたつの可能性のはざまの息苦しさ」--ということばは、どこにあったかなあ。どこかで遠く(深く)響いているのだが……という感じで作品全体を揺さぶろうとしている。
 とても楽しい。

 もうひとつ、先の引用にはおもしろい(興味深い)ことばがある。野村が意識しているかどうかわからないが、この作品、あるいは芸術全般に通じる重要なことばがある。オクタビオ・パスの文章のなかに出てくる「繰り返す」という動詞である。

木樵は同じ行為を繰り返そうとしているわけだが、その象徴的繰り返しの結果は、もとの行為がもたらした結果とは正反対になる。

 ごていねいにも2度「繰り返す」が使われている。そして、この「繰り返す」が芸術なのである。「態と」繰り返すのが芸術なのである。ある美を(あるいは衝撃的な事実、あるいは体験を)ひとはわざと繰り返す。繰り返すことで自分自身のものにする。自分のものではないものを、そっくり繰り返すことで自分のものにする。
 そして、それはそっくり繰り返しても、ほんとうはそっくりにはならない。ずれる。「ずれ」が生まれる。それを拡大する。小さなずれを増幅し、その振幅がとらえられる範囲を広げ、共振できる何かと響かせ、和音をつくる。
 野村はダッドの絵のなかの「ふたつの可能性のはざまの息苦しさ」を増幅させ、共振させ、その倍音として駐車場のカーセックス、三角関係、さらには男の「お母さーん」という情けない叫びという和音を作り上げる。とても楽しい。

 (繰り返しとずれから、フランスの現代思想かの「キーワード」へと考えを進めてもいいかもしれないけれど、--たぶんそうすれば、「現代詩手帖」や「ユリイカ」向きの批評になるかもしれないけれど、私は他人のことばを踏まえながら自分の考えていることを書くというのが苦手なので、省略。)

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