詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山崎るり子「美しい朝」

2007-12-19 11:28:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 山崎るり子「美しい朝」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「東京新聞」2007年05月11日)
 ことばは繰り返しているうちに変質してくる。どんなふうに変質してくるかを明確にいうことはできない。いうことができないままに、変質してしまう。
 山崎るり子「美しい朝」は、何の説明も加えず、ただ変質をほうりだす。

美しい朝
大丈夫。
波は波のまま 繰り返している
繰り返している。

美しい野。
大丈夫。
捨て猫はまだ鳴いている
聞こえない声で まだ鳴いている

美しい朝
大丈夫。
空からは何も落ちて来ない

私は靴紐を結び直そうと屈んだ
私が靴紐を結び直して
体を起こしたとき
それはもう終わっていて
わたしは何も知らずに歩きだした

美しい今日、
大丈夫。
わたしは何も知らないでいる。

 最終連には隠されたことばがある。その隠されたことばこそが、この詩の中で変質してしまったものだ。変質してしまったから、そこに存在するにもかかわらず見えない。ことばとしてあらわれることができなかったのである。

 この詩のなかにはいくつかのことばが繰り返されている。「繰り返している」も繰り返されているが、そのほかに「美しい朝」「大丈夫」「まだ」「鳴いている」「靴紐」「結び直す」。
 最終連では「美しい朝」は「美しい今日」に変質している。「大丈夫」は同じ形で繰り返されている。「美しい朝」が「美しい今日」に変化したけれど「大丈夫」はそのまま変化しないでいる。というのは、みせかけで、「美しい朝」が変質したのなら「大丈夫」も「大丈夫」ではなくなっているはずである。だが、そのことについて「私は何も知らないでいる」。
 何がほんとうに変質したのか。

 繰り返されることばと、繰り返されないことばがある。その違いのなかに、ほんとうに変質してしまったものがある。
 「まだ」は 2連目のなかに繰り返されている。「もう」は4連目のなかで1回だけ使われている。そして、よく読み返すと「まだ」は実は書かれてはいないが4連目以外には隠れひそんでいる。1連目では「波は波のまま (まだ)繰り返している」、3連目「空からは(まだ)何も落ちて来ない」、4連目「私は(まだ)何も知らないでいる」。
 「まだ」が変質したのである。
 1連目は「まだ」が隠れているが、書く必要はなかった。3連目では「まだ」は消えかかっている。4連目で「まだ」は「もう」に変化してしまって、5連目の「まだ」は1連目から3連目までの「まだ」とは完全に違ってしまったために、存在するにもかかわらず、登場することができない。登場するときは、はっきりと2連目と5連目で違ってしまったこと、その具体的な内容を書かなければいけなくなる。ところが、その変質は書くことができない。だから、省略するしかないのである。
 「私は(まだ)何も知らないでいる」とは、取り返しのつかないことなのである。人間は、その何もできないことの前で、それでも、「まだ」にすがろうとしている。「もう」変質してしまっているのに、「まだ」大丈夫、と思い込もうとしている。思い込めば現実そのものが変質してくれるとでも信じているかのように。

 このとき、「美しい朝」は逆説である。山崎は、わざと「美しい朝」と書いている。「美しい今日」と書いている。美しくないから、美しいと書く。このわざののなかに詩がアリ、そのわざとを支えているのが「まだ」という意識が変質しているという認識なのである。
 ここには詩と哲学の出会いがある。批評がある。

コメント
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