詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中上哲夫「海蛍観察会」、白石公子「海岸沿いバス」

2007-12-12 09:59:22 | 詩集
 中上哲夫「海蛍観察会」、白石公子「海岸沿いバス」(「現代詩手帖」2007年12月号)
 抒情はどこへ行くのだろう、とふと思った。これは、抒情はどこからやってくるのだろう、と意味はほぼいっしょかもしれない。
 中上哲夫「海蛍観察会」の後半。

ざぶざぶと海へ入っていって
海水を汲んできた者がいて
防波堤のコンクリートにぶちまけると
青白く発光したのだった
威嚇や求愛のために光るのだという話だったけど
それだけではないように思った
風来坊にも定住者にもなれないわたしは
唐突に
宇宙の果ての波打ち際に打ち上げられた漂流物のような気がした
わたしだったら
さびしくて光るかもしれない、と

 行わけを利用した(?)、気のゆるんだような、緊張感のないことば運びである。その象徴的なことばが「わたし」の繰り返しである。前半には「わたし」は省略されて書かれている。
 書き出し。

秋の長い夜
海蛍を見に行った
ホテルの車で
妻と、友人夫妻と
アメリカ人一家と。

 日本語は「わたし」を省略する。省略して、そのかわりに周囲の人物を描く。そして、その関係のなかに「わたし」を塗り込め、隠してしまう。敬語が、その典型である。敬語をつかいわけることで、「わたし」の位置を「人間関係」そのものに変えてしまう。中上は敬語こそつかっていないが、中上は「わたし」を巧みに隠し、同時に、人間関係を描いている。「わたしの」妻、「わたしの」友人夫妻、という形で。さらにていねいにその「わたしの」そのものをいっそう見えにくくするために「アメリカ人一家」が登場させている。その一家は「わたしの」知り合い? それとも「友人夫妻の」知り合い? あいまいにすることで、「わたしの」の関与を完全に消し去ろうとする。
 そんなふうにして日本語の特質をいかしながら「わたし」を隠しつづけた中上が、突然、最後にきて2回もつづけて「わたし」という主語を書く。日本語をしばっていたひそかな規律がここで一気に乱れる。そのために、散文を行分けして書いただけのような感じの文が、いっそうゆるんだ感じがするのである。
 そして、そのゆるみこそ、中上の抒情である。「風来坊にも定住者にもなれないわたし」と中上は書いているが、ここにある意識は「わたし」の排除である。「わたし」から「わたし」さえ排除している中上。中上がどういう職業についているか、どんな生活をしているか、私は知らないが、自己を排除する(自己主張をしない)という生き方が身にしみこんでいるのかもしれない。その中上から、一瞬「排除」の意識が消える。「排除」しつづけてきた「わたし」が(すでに見てきたが、前半には実際に「わたし」はことばとして登場しない)、ふいにあらわれる。あらわれるだけではなく、まるで小学生の(初級の)感想文かなにかのように「わたしだったら」と言い出すのである。「だったら」と仮定のなかへ逃げ込みながら、自分の思っていることを語るのである。「かもしれない」と、仮定を完結させ、「わたし」に一定の「枠」をあたえる。まるで、それは「ほんとうのわたし」ではなく、あくまで仮定、空想にすぎないと明確にすることで、もう一度わたしを「排除」するかのようである。
 しかし、それはわたしを「排除」しながら、同時に「排除」の構造(仮定形)を強調することで、「わたし」を静かに提出する巧みな方法なのである。
 「さびしくて光る」というような、この1行だけを取り出すと、もうどういっていいかわからないような、つかいふるされたような抒情のことばは、中上の「わたし」の「排除」という構造があってこそ、それこそ静かに光を放つのである。
 中上は、抒情を取り戻すひとつの方法を提示したのだといえる。



 白石公子「海岸沿いバス」。比喩におもしろい部分があった。

ほどけることだけを夢見るセーター
転がる毛玉を追いかけるバスに揺られ
海が見えてくると毛玉の先は
ふらつく初冬の蝶を追って上空へ
編んではほどき、ほどいては編んで
しずくをまとう毛糸の雨
海面がオルゴールの張りではじかれたように波打つとき
入り江の曲線は、点字の地図をなぞりながら
ほどけてゆく

 「海面がオルゴールの張りではじかれたように波打つとき」。これは形の描写なのだが、ちいさな音楽を運んでくる。記憶のなかの音楽を運んでくる。そして、それは中上の詩がかくしていたように「わたしの」音楽である。他人のもの、あるいは誰のものでもない音楽ではなく、「わたし」が聞いたオルゴールの音なのだ。
 白石の聞いたオルゴールと、私が聞いたオルゴール、そして他の読者の聞いたオルゴールはそれぞれ違うだろう。しかし、それはまぎれもなく「わたしの」オルゴールであり、そこに「わたし」が隠されている(たとえば、特別な曲をあげることで「わたし」を強調するようなことを白石はしていない)。「わたし」が隠されているがゆえに、それぞれが「隠されたわたし」を重ね合わせることで、「わたし」を消し、抒情そのものとして、その瞬間に存在する。
 一瞬を利用した、短い時間を利用した抒情である。長編詩では、こういうことは、たぶん不可能である。

コメント
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