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椎野満代「秋刀魚」、岡野絵里子「永遠の一日」(「現代詩手帖」2007年12月号)
「現代詩手帖」の「アンソロジー2007」に収録されている。椎野満代「秋刀魚」は2006年11月発行の『秋刀魚』のなかの1篇。
あの男のネクタイは活きがいい
頭から尾ヒレまで
ぴしりと糊のきいた
サンマ
都会の潮の流れは速い
大きな
時代のうねりにのって
タイミングよく回遊し
商談は
やはり
相手のネクタイのサンマの
捕獲にかかっている
首をしめられたまま
くたびれた男の多いなか
あの男だけは
なにやら
サンマと交渉しながら
気運の高まりの絶好調のとき
めでたく
成立の判を押す
人のきもちの潮の満干(みちひ)も心得ている
やり手商社マン(?)をネクタイに焦点をあてて戯画化している。ただネクタイを描くだけではなく、さらにネクタイを「サンマ」に戯画化している。2度戯画化することで、ことばが軽くなっている。スピードもアップしている。この軽さとスピードが詩を支えている。それこそ、「活きのいいサンマ」のようである。
タイトルを「秋刀魚」と古臭く書きながら、本文では「サンマ」とカタカナにして「意味」を剥奪してしまっているのも、とてもいい。本文が「秋刀魚」のままだったら、スピードが鈍って、重くなったに違いない。「ぴしりと糊のきいた」というばかげた比喩(ネクタイはワイシャツではないし、いまどき糊のきいたシャツでもないだろうし)でつまずいてしまうが、「秋刀魚」ではなく「サンマ」であるために、軽くジャンプして、躓きの石を、逆に不規則な(変化に富んだ)リズムにしている。楽しいものにしている。
*
岡野絵里子「永遠の一日」(『発語』2006年11月発行)は、椎野の軽さ、スピードとは違った場でことばを動かしている。
雨が降りはじめたようだ
葉を叩く水の音がする
私は柔らかい灰色の下にいて 長い一日の物語を書こうとしている
1連目のあとの2行アキ。1行ではなく2行にこだわる呼吸。これは速さと対極にある。わざと減速するのである。スピードを落とし、世界のなかへ、自分の世界のなかへ沈んで行く。自分から出ていかないために、1行アキのをと、もう一度1行アケ、ことばの通路を閉ざすのである。
さらに「柔らかい」「灰色」ということばによって「あいまいな距離」を増幅させ、そのうえにさらに「長い」「物語」と現実世界からどんどん遠ざかることで、その遠さのなかにこそ岡野の「現実」があると言うのである。
この「距離」の取り方は、1行目「雨が降りはじめたようだ」の「ようだ」のなかにすでに存在している。
「雨が降りはじめた」ではなく「ようだ」と距離をおく。テーマは岡野の外の世界ではなく、岡野の内部なのである。「ようだ」と感じるこころなのである。
雨粒は地上に触れる直前に 翼をたたみ そっと爪先を揃える
光がこの地上のものとなる その瞬間を 私は見ていたい 降りてきた言葉の爪先が私に触れる
これはもう、現実の世界ではなく、岡野のことばによって何重にも隔離された岡野の内部である。何重にも隔離された内部世界であるからこそ、「雨粒」の「爪先」と「言葉」の「爪先」が見分けがつかなくなる。岡野には明確な区別があるのだろうが、読者は(私は)、その区別がわからない。同じものに見えてしまう。「雨粒の爪先」=「言葉の爪先」であり、それは1行目の「ようだ」によって初めて成り立つ世界である。
「永遠」は岡野にとっては「ようだ」と言ったその瞬間にはじまり、岡野の内部で広がって行く--岡野を超えて行くもののように思われる。