坂多瑩子「茂み」(「鰐組」225、2007年12月01日発行)
認知症の母を施設に訪ねる。母は坂多を認知できない。その後半。
最後の方の「茂み」は母のが入所している施設の近くの駅のホームの茂みであるだろうと思うけれど、その「茂み」がそのまま母の認識している世界と重なる。また坂多自信の認識している世界と重なる。
ひとはいつでも思いもかけぬものとぶつかる。
そのとき、それをどう認識するか。ここに、そのひとの人間性が出てくる。
認知症の母と話す。母の見ている世界は坂多の認識している世界とは違う。だから会話が会話にならない。そのとき、そのことの不便さ、理不尽さのを通して、何を見るか。感じるか。坂多は「とてもすんだ音」を聞いたのだ。帰って来たものを、答えを「澄んだもの」(透明なもの、汚れのないもの)と感じた。
それは坂多に「天使」を思い出させる。
「天使」は実在しない。実在はしないけれど、実在しないがゆえに、そこには人間の夢や願いや、あるいは欲望が存在している。
母を通して天使に出会う、あるいは母の中に天使を見いだしている--ということは、実は、坂多自身の中に天使とつながるものを見いだすということでもある。だからこそ「澄んだ音」が聞こえる。
なかには、この音を「いやな音」と聞く人もいるかもしれない。「澄んだ音」、しかも「とても澄んだ音」と聞き取るこころのつよさが坂多の力だ。
認知症の母を施設に訪ねる。母は坂多を認知できない。その後半。
天使は記憶を持っていないと
昨日 本で読んだけど
頭のなかにはつながっている線みたいなものがあって
どこで切れば
今だけになれるのだろうか
なぜ帽子をかぶるのと聞くと
だって こっちのほうがあれだもの
ぼそぼそという
母のまわりにあるものはぼやけている
はっきりしたカタチのものは
なにもないが
すべてはっきりしたカタチを持っている
小さなものまでが自らのカタチを誇示している
私は
茂みに石をほうり投げた
石は草の上に落ちるはずだったが
何かにあたった
とても澄んだ音をたてた
最後の方の「茂み」は母のが入所している施設の近くの駅のホームの茂みであるだろうと思うけれど、その「茂み」がそのまま母の認識している世界と重なる。また坂多自信の認識している世界と重なる。
ひとはいつでも思いもかけぬものとぶつかる。
そのとき、それをどう認識するか。ここに、そのひとの人間性が出てくる。
とても澄んだ音をたてた
認知症の母と話す。母の見ている世界は坂多の認識している世界とは違う。だから会話が会話にならない。そのとき、そのことの不便さ、理不尽さのを通して、何を見るか。感じるか。坂多は「とてもすんだ音」を聞いたのだ。帰って来たものを、答えを「澄んだもの」(透明なもの、汚れのないもの)と感じた。
それは坂多に「天使」を思い出させる。
「天使」は実在しない。実在はしないけれど、実在しないがゆえに、そこには人間の夢や願いや、あるいは欲望が存在している。
母を通して天使に出会う、あるいは母の中に天使を見いだしている--ということは、実は、坂多自身の中に天使とつながるものを見いだすということでもある。だからこそ「澄んだ音」が聞こえる。
なかには、この音を「いやな音」と聞く人もいるかもしれない。「澄んだ音」、しかも「とても澄んだ音」と聞き取るこころのつよさが坂多の力だ。