詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大岡信「ニーナさん」

2007-12-13 12:01:34 | 詩(雑誌・同人誌)
 大岡信「ニーナさん」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出は「文芸春秋」2007年01月号)

小柄な色じろの 青い瞳のニーナは
盗賊に惨殺された、スイスの山荘で。
宝石のコレクターとして有名な
彼女の宝石が目当てだつたが、
貴重な思ひ出のつまつた
夫カンディンスキーの絵は 手つかずだつた。
こんな変な絵は値ぶみさへできぬと
賊は転じて批評家として思つたのだ。
昔 セーヌを見下ろすヌイイのお宅で
逢つたことがある ニーナさん。

 「賊は転じて批評家として思つたのだ。」の「批評家」に詩がある。賊はもちろん批評家ではないし、批評家に転じたわけでもない。批評眼を持たなかった。宝石に対する「批評眼」は持っていても。
 その存在しない批評眼を「批評家」と位置づけて呼ぶとき、そこに大岡の批評が入ってくる。大岡はわざと、賊を「批評家」と呼んだのだが、その「わざと」のなかに、大岡の批評眼が入ってくる。宝石よりも絵の方がもっと価値があるのに、という批評が入ってくる。何も書いてはいないけれど。
 「わざと」のなかには、大岡の愛も含まれている。
 賊を「批評家」とわさど呼ぶとき、そこから人間が作り上げる芸術に対する愛があふれ、それがそのままニーナさんにつながってゆく。
 芸術を愛するとは「思ひ出」を大切にすることである。芸術とは、なにかに対する「思ひ出」が結晶したものである。「思ひ出」とは記憶であると同時に、精神そのものである。何を大切にするか、何に基準を置くかという精神そのものである。--そういうことを、一瞬のうちに、さっと言ってしまうために、わざと「批評家」ということばをつかったのだ。
 その定義が静かにニーナさんの記憶、大岡がニーナさんに逢ったときの記憶に結びつく。カンディンスキーの記憶に結びつく。カンディンスキーを大切にするニーナさんに結びつく。記憶が、大岡を、いま、ここではなく遠いヨーロッパへつれて行く。そして同時に、遠いヨーロッパを、過去を、いま、ここに呼び出し、宝石のように輝かせる。宝石は盗まれたが、けっして盗むことのできない「思ひ出」という宝石が、そのとき輝くのだ。

 不思議なことだが(そして、もしかすると不謹慎な感想なのかもしれないが)、あ、ニーナさん、あなたは殺されたけれども大切にしている夫、カンディンスキーさんの絵は盗まれず、いまもあなたとともにある。よかったですね、といいたくなるような詩である。殺されたのに「よかった」もなにもないのだけれど、そうした不幸のなかにも、哀しみではなく、静かな安らぎを呼び込む愛がここにある。芸術を愛するものの愛、共感というものがある。
 不幸なのに、悲しまなければならないことなのに、安らぎと、そして少しの笑いと。
 ほんとうにいい詩だ。いい追悼詩だと、しみじみ思う。



 この詩には、ほかにもびっくりさせられた。技法というと奇妙かもしれないが、ことばの動かし方が、この詩の短さ、そして「批評家」を中心としたことばのすばやい動きにぴったりと合っていることに、とても感心してしまった。(大岡のような大詩人の詩に感心してしまった、というのは奇妙な、というか、あたりまえすぎる反応なのかもしれないけれど……。)

小柄な色じろの 青い瞳のニーナは
盗賊に惨殺された、スイスの山荘で。

 この2行目の倒置法はとてもスピード感がある。1行目が頭でっかちというか、修飾語が重たくて、ゆったりした動きなのに、2行目で突然スピードが増す。改行しなければならない理由が、ここにある。「小柄な色じろの 青い瞳のニーナは スイスの山荘で、盗賊に惨殺された。」なら散文になってしまい、改行の必要はない。
 散文のスピードを超えること(散文のスピードを拒絶すること)で、ことばは詩になるのである。
 そして、この2行目の加速があるからこそ、それにつづく4行がいきいきと動く。2行目のスピードに乗って、通常の散文の文体を破壊して動いてしまう。その動きを自然なものに感じさせてしまう。

宝石のコレクターとして有名な
彼女の宝石が目当てだつたが、
貴重な思ひ出のつまつた
夫カンディンスキーの絵は 手つかずだつた。

 この4行は、これがもし散文なら、悪文である。主語がふたつあり、そのふたつの主語をつなぐための接続詞のつかい方が奇妙である。正確な(というか、論理的な?)散文ならば、「(盗賊は--これが主語)宝石のコレクターとして有名な彼女の宝石が目当てだつたので(「が」ではない)、貴重な思ひ出のつまつた夫カンディンスキーの絵には(「は」にすると、主語が盗賊から絵に変わってしまう) 手をつけなかつた。」になるだろう。
 「が」という逆説の助詞では、「宝石が目当てだったが、宝石には手をつけなかった」という文章にならないと奇妙である。「ので」という理由を説明することばなら、そのまま「盗賊」を主語にして、「絵には手をつけなかつた」とつながる。
 しかし、私が書いたような散文にしてしまうと、主語が盗賊のままのさばり、この作品の重要な主語(ニーナと同等の主語--映画で言えばニーナが主演女優なら、カンディンスキーの絵は主演男優)である「カンディンスキーの絵」がことばのなかに埋没してしまう。重要な主語を埋没させず、逆にくっきり浮かび上がらせるために、大岡は、わざと、文章を乱しているのである。文章の乱れ(破調)を利用しているのである。
 そして、この破調を破調と感じさせないための「誘い水」のような働きをしているのが2行目の倒置法なのである。倒置法という文法的に認められている破調で、読者の意識をほぐしておいて、さらに破調へと進んで行く。加速する。
 加速に加速を重ねることで、

こんな変な絵は値ぶみさへできぬと
賊は転じて批評家として思つたのだ。

 という、この詩のことばのクライマックスに達する。常識(散文的意識)ではありえない表現、「賊は転じて批評家として」に到達する。それまでの口語的な表現から、文語的な文体へとも転換する。
 それ以前の文、2行、4行が、いわば「起」「承」ならば、この2行は「転」である。
 この詩は明確な「起承転結」という形式で書かれているのである。

 そして、この形式ゆえに、この詩はとても静かで落ち着いていて、そこにゆったりと故人を思う気持ちをただよわせている。
 ほんとうにいい詩だ。すばらしい詩だ。

コメント
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