詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

福間健二「ばらばらにになった部位のなにが」

2007-12-20 10:36:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 福間健二「ばらばらにになった部位のなにが」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「ペーパー」1、2007年05月発行)
 福間健二「ばらばらにになった部位のなにが」はかつて「ペーパー」で読んだはずである。そのときは印象に残らなかった。「ペーパー」が大きすぎて、私の手にあまり、意識が散漫なまま読んだのだろうと思う。
 「詩はオブジェである」と野村喜和夫はかつて言ったことがある。(詩集はオブジェである、だったかもしれない。)
 私は、どんなものに書かれていてもことばはことばであってそれ以外のものではないと考えている。どんなものに書かれていても、詩の形式(?)ではなくても、ついつい詩かもしれないと思って読んでしまう。頭の中でことばを動かして、それが気持ちよく動くかあるいは逆にとんでもなく気持ち悪く動くか、ようするに私を刺激するかどうかだけが問題だと考えている。
 しかし、そうとばかりは言えないのかもしれない。私は、気楽に広げられない大きさのものは敬遠してしまうのかもしれない。
 「現代詩手帖」という雑誌が詩の媒介として最適であるかどうかはわからないが、このサイズの本だと読んでいてことばに集中できるのである。(体調も影響するかもしれないが。)あ、福間はこんなにおもしろい詩を書いていたのか、とちょっと驚いてしまった。

土曜日、問題が発生した
日曜日、精霊たちのいる河原を
自転車で通っても、とりかえせる部位はなく
くらやみで、他人の手で
ハサミを使いながら、私は切り抜く記事を見失っていた

月曜日、目のつりあがった「美しい国」との対決を
回避する他人の足で
庭のクリスマスローズを踏み
「さようなら、お世話になりました」

 2度出てくる「他人」ということば。それはもちろん比喩であって、ほんとうは「私」の手足である。「私」のものなのに「他人」と、わざと書く。その瞬間に、世界の関節がはずれてしまう。福間の書いていることばをつかえば「ばらばら」になる。ばらばらになるとはいいながらも、人間の体は、あるいは意識もそうかもしれないが、関節以外でもつながっている。ばらばらになっても、それは完全な切断ではないのである。逆に言えば、新しい接続の形をもとめる意識が「ばらばら」を生み出しているのかもしれない。
 ばらばらでありながら、不思議な形でつながる。それは、ちょうど、福間の書いていることばが、ばらばらのまま詩行をつくるのに似ている。
 たとえば2連目の「美しい国」。安倍が首相だったころさかんに口にしたことば。そのことばは2007年という時代と社会を超えて、どこまで射程をもちつづけるかわからない。そしてそれが「射程」を失ったとしても、ことば自体としては存在する。ばらばらであることを自覚しながら、日本語そのものとして、永遠に存在し続ける。--そうした関節のはずれた感じと接続なの感じが、現実をさびしいものにする。現実との接続をいっさい説明せず(「美しい国」がだれのことばであるか、それをどう聞いたかなどはいっさい説明せず)、逆にはずれた関節のように機能不全というかたちでほうりだす。そこに、不思議なさびしさがある。ことばがつくりだす熱狂のさびしさと、同時に熱狂が覚めていくときの平静な感じがある。

私は切り抜く記事を見失っていた

 こういうセンチメンタルは私は大嫌いなのだが、この作品のなかでは、とてもさびしい感じにおさまっている。そして、そのさびしさをとおして、現実が少し活性化する。あ、これは西脇の新バージョンか、とふと、思ったのである。さびしさが、福間そのものになるのである。

 ただし最終連(引用を省く)は私にはとてもつまらなかった。げんなりしてしまった。そこにあるのはさびしさではなく、気取った孤独である。安易なセンチメンタルである。
コメント
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