詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子「冬」

2007-12-07 09:48:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 三井葉子「冬」(「楽市」61、2007年12月01日発行)
 1連目がおもしろい。

曲り角を
曲ってから
ふと 思い出した
胎児と話しているお母さん
を 思い出した

 「思い出した」の繰り返し--それが奇妙におもしろい。ただ単に思い出すだけではなく、繰り返すことで思い出の中へ入っていく、そうすることで思い出そのものが変質して行く。そんな予兆のようなものが、この繰り返しの中にある。「思い出した」ということばは同じだが、最初の「思い出した」と繰り返された「思い出した」は何かが違う、という感じがする。
 この微妙な「ずれ」のようなものは「曲り角を/曲ってから」という書き出しからはじまっている。「曲り角」「曲って」という重複のなかに、「角を曲がる」を超えるなにか、角をまがる行為の中にある意識--どこかいままでとは違ったところへ行く、迷い込んで行くという予感のようなものがある。
 「思い出した」はこの詩の中では、あと2回繰り返される。

波動は胎のなかも
すうい すういと通り抜けるが

胎児がうずくまっていると
そこが発信所になるのを
思い出した

胎児はひげもあって ぬるっとしている
それがいるとむこうが
見えない

生き物が波動の発信所だったのを思い出した
わたしは生き物は波動の中継地だと思っていた

 「思い出した」は2回繰り返され、それから突然省略される。「思っていた」--ことは正確には「思っていた」ことを「思い出した」である。
 三井の「思い出した」は正確には「思っていた」ことを「思い出した」という形をとっている。それがはっきり自覚されずに、1連目では「思い出した」が5行のあいだに2回繰り返されるのだ。そして「思っていた」ことを「思い出した」とわかった瞬間から、「思い出した」は省略される。
 そして、飛躍する。「思っていた」ことの世界、「思い出す」を突き抜けて、「思い出」、あるいは「思い」そのもののなかへ侵入していく。
 その部分が非常に美しい。

あのね

角を曲る

まあ
こんなところで
眠って

お母さんが
抱き上げると
濡れていた

あれはいつごろだったのだろう
カンナ屑のなかで眠ってしまって
目が覚めたら
光が
ぽたぽたと
落ちていた
冬。

 「思い出した」がここでは省略されているが、それは「思い出した」と意識しているからではなく、三井自身が「思い出」(思い)のなかに没入し、そこでは胎児のように純粋ないのち、母親に守られて世界のなかへ飛び出してきた誕生の一瞬として存在しているからである。
 詩の前半と後半を分断し、同時につないでいるのが「思い出した」ということばの省略、三井の意識の変化である。
 最終行の「冬。」の句点「。」もとてもいい。世界が完結する、その一瞬の美しさが句点のなかにある。

コメント
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