詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「大鴉」

2007-12-10 10:23:22 | 詩(雑誌・同人誌)
 粕谷栄市「大鴉」(「ガニメデ」41、2007年12月01日発行)
 「故吉田睦彦氏に」と献辞がついている。戦地の病院で知り合ったひとらしい。

 いつも黒ずくめの洒落た格好をして、片脚で立っている男がいて、気がつくと、私に見えるところにいる。

 この冒頭の1行が、後半で変奏される。

 そして、死ぬ前に、是非、彼の故郷の島へ行くべきだと、言っていた。何でも、その島には、とても美しい森がある。沢山の鴉が、全て、片脚で立って、そこに眠っている。人間は、一度、それを見るべきなのだと。
 (略)
 彼を見ると、私は、親指を立てて、合図を送ることにしている。その瞬間、この世では、とっくに死んでいるはずの二人が、どうやら、まだ生きているのである。

 思い出すこと--思い出すたびに生きる。そういうことが静かに、ていねいに語られている。
 そして、この静けさを演出しているは、「何でも、その島には、とても美しい森がある。」の「何でも」である。「何でも」が、それからつづくことばを、真実と受けとってもいいし、ただ「あ、そう」と聞き流してもいい、嘘だと思ってもいい、という感じをかもし出す。
 粕谷は、その本当かつくりごとかわからない話を、そして真実と信じて書いているわけでもない。やはり同じように、真実と受けとってもいいし、そうでなくてもいい、という感じで書いている。ただし、その真実であるかどうかわからないものを、粕谷は吉田とかさねる。真実であるかどうかわからないが、そのことばを語ったということだけは真実だからである。
 「何でも」は、その吉田が語ったということ、吉田がいたということ、吉田の存在の真実を静かに提示することばである。そして、それは吉田を信じるということでもある。

 この「何でも」を粕谷の作品自体もつけくわえてみたい衝動に、私は襲われる。最後の部分である。次のように。

 「何でも」彼を見ると、私は、親指を立てて、合図を送ることにしている。「何でも」その瞬間、この世では、とっくに死んでいるはずの二人が、どうやら、まだ生きているのである。

 粕谷のこの詩は「何でも」の世界なのである。確かなのは、粕谷がいるということ。そして吉田を思い出しているということだけである。吉田と粕谷がどんなふうにして世界に存在しているかは「何でも」の世界である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする