詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

正津勉「羊歯」

2007-12-16 11:27:22 | 詩(雑誌・同人誌)
 正津勉「羊歯」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出「北冬」5号、2007年02月発行)
 正津勉の詩は妙にうさんくさい。たとえば「羊歯」。その1連目。

いちめん羊歯の群落のなか
わたしは何を考えているのか
いまその根方のそこに仰向けている
湿気た気色悪い背中の腐食土
薄緑にすきとおる葉裏

 「わたしは何を考えているか」。その「考え」ということば。こういう基本的なことばについての定義はあいまいである。考える、思う、感じる--は微妙に入り交じる。そういうあいまいな部分を利用して正津のことばは動いていく。
 羊歯の群落に寝転んでいる。その背中で「湿気た気色悪い」「腐食土」を正津は「考えている」のではなく感じているのだと思う。しかし、「気色悪さ」は「感じ」ではあるけれど、それを「気色悪い」と感じるかどうかは、実はそれを「気色悪い」と考えるかどうかという基準によっても違ってくるということができるので、かならずしも正津が「湿気た気色悪い」「腐食土」について「考えている」という主張(?)を否定できない。
 そういう部分、考える、感じる、思うのあいまいな部分へ正津はすーっと入っていくのである。
 「薄緑にすきとおる葉裏」にしても同じである。「すきとおる」と感じているのか、その透き通り方はたとえば太陽の光線と葉の厚みとの関係によってたまたまそうなっていると考えているのか断定できない。「すきとおる」と感じているのか、そう思うおうとしているのかもわからない。
 そのわからなさは、けれども、そこに書かれていることが複雑であるとか、専門知識を必要とするのでわからないというものでもない。むしろじめじめしたものの気持ち悪さ、葉っぱが太陽にすけてみえるということは誰もが知っていることであるからこそ、それを私たちが考えているのか、感じているのか、思っているのか、その区別がつかない。
 そんなあいまいさのなかへ読者をさそっておいて、2連目。

みはるかす湿原のいったい
わたしのほかに人影などはむろん
ただときおり鳥の声がとどくばかり
どこかで水が湧き流れるらしい
涼やかな音がしていて

 ここには多くのことばが省略されている。正津は、それを読者にまかせてしまっている。
 「みはるかす湿原のいったい」の「いったい」は何を言いたいのだろうか。「一帯」のことだろうか。1連目1行目に出てきた「いちめん」と同じ(あるいは類似した)意味だろうか。それとも「いったい誰がいるだろうか」ということばを引き出すための「いったい」だろうか。2行目「わたしのほかに人影などはむろん」は「むろんいない」という意味だろうか。
 「誰もいない」ということを正津が書こうとしているのだと仮定すれば、ここでもう一度「考える」ということばが問題になってくる。そこに誰もいないと「感じる」ならば、本当はそこには誰かいることになる。誰かがいるけれども、誰もいないと「感じる」。「思う」も同じだろう。誰かがいるにもかかわらず、誰もいないと「考える」ということも可能ではあるけれど、それは特殊な場合である。(たとえば、誰もいないと考えることで、たとえば感情を解放する。あるいは思考を集中させる。)ここでは、正津は状況から判断して、「誰もいない」と単純に「考えている」。
 1連目の「わたしは何を考えているか」の答え(?)は、いま、正津のまわりには羊歯があるばかりで、そこには誰もいないと考えているということになる。
 しかし、正津は、そんなことは書かない。誰もいないと考えていると書くことを拒絶し(明確な省略がそこにある)、かわりに考えていないことを書く。感じていることを書く。

ただときおり鳥の声がとどくばかり
どこかで水が湧き流れるらしい
涼やかな音がしていて

 鳥の声、水の音--それは聴覚(感覚)が感じることである。「涼やか」であるかどうかも感じである。考えたことは省略し、感じたことを「考えた」こととして提出する。そして、それは3連目以降へ読者を誘い込む方法でもあるのだ。

そよそよの風にゆらめく
ぎざぎざの葉先がこやみなく
むずがゆく眉をまた瞼をなでている
そんなまるで爪のようだったり
そうそれかと唇みたくも

 このはっきり言い切ってしまわない文体は2連目の「みはるかす湿原のいったい/わたしのほか人影などはむろん」を踏襲したものである。2連目では「考え」を書くことを拒絶し、3連目では「感じ」を途中までは書きながら最終的には拒絶し、宙ぶらりんにする。宙ぶらりんにすることで、たとえば読者自身の男と女の愛撫の世界を引き込む。そこには具体的なことは何も書かれていないから、読者は自分の体験で書かれていないことを自在に補うことができる。
 正津は、こういうあいまいさを詩ととらえている。
 え? 何? あ、そのこと? 知ってるでしょ?
 何も言わない。読者に勝手に言わせる。思わせる。いつでも、そんなことは言っていない。書いていない、と主張できる。
 湿原に誰もいない、とは書いていない。誰もいないと考えたとは書いていない。羊歯の葉先を爪のように感じたとは書いていない。唇みたいと感じたとは書いていない。考えたとも、思ったとも書いていない。そんなふうに読むのは読者の勝手だ。読者が(あなたが、つまり私・谷内が)自分の欲望をわたし(正津)のことばに託しただけでしょ、と正津はいつでも言えるのである。

 こういう手法を私は「うさんくさい」と言うのである。もちろんこれは、いい意味でそう呼ぶのである。
コメント
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