詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

犬塚堯「言葉とねずみ」

2007-12-17 11:49:58 | 詩集
 犬塚堯「言葉とねずみ」(「現代詩手帖」2007年12月号、初出『犬塚堯全集』、2007年04月発行)
 犬塚堯には一度だけ会ったことがある。私は詩人とはほとんど会ったことがない。最初に会った有名詩人だった。北九州で講演会があり、聴衆として駆り出された。そして、偶然、会ったのである。講演会の世話人のような人に呼ばれて何人かでいっしょに会話した。そのとき印象に残っているのが、ほかのひとはみな犬塚の詩集を持っていてサインをしてもらっていた。私は詩集を持っていなかったのでただ座っていたのだが、その私に「きみは?」と聞かれたことである。そのあと少し話したのだが、犬塚は詩を書くとき、非常に禁欲的に(?)書くということを、犬塚みずからが語りだしたことである。ことばがやってくるまで、ひたすら待ち、その間に自分を痛めつけることもある。精神を集中させるのだという。雑念を取り払うのだと言う。座禅のようなことはもちろん体験したし、ときには二の腕を刃物で切ったりもするという。「なんなら見せようか?」見せてもらうことは遠慮したが、びっくりしてしまった。
 私は詩を書きはじめたばかりで、そのとき、そこに居合わせた人間のなかでは一番若かったので、犬塚がちょっと驚かそうと思って言っただけのことかもしれないが、とても印象に残っている。
 「言葉とねずみ」を読みながら、ふいに、そのことを思い出した。

ある日 口の中が熱くなって
思わず洩らした一つの言葉
出所不明の だがそれは
確か ずっと以前に一度
僕の口をついて出た言葉
あの女を掬い上げて草間に立上がらせたもの
地球が回っているうちに
ふいに戻ってきた意味不明の言葉

 犬塚はいつでもことばを待っている詩人なのだ、と、あらためて思ったのだ。ことばとふいに出会ってしまった犬塚の姿が、30年も前の記憶を蘇らせたのである。
 この詩のなかには犬塚の特徴が凝縮している。
 4行目「ずっと以前」、7行目「地球が回っているうちに」。そのことばのなかにある時間感覚。犬塚の詩はいつでもことばのなかに時間を抱え込んでいる。「ずっと以前」、つまり太古の時間。それは人間の単位の時間ではなく「地球」(宇宙)の単位の時間である。巨大な時間、人間を超越した時間である。その時間巨大な時間が人間の「雑念」(これは犬塚が私に語ったことば)をそぎ落とす。人間が、その瞬間に一個のいのち、生成するいのちになる。
 犬塚は「意味不明の言葉」と書いているが、人間の「雑念」がそぎ落とされ、いのちそのものになった瞬間のことばには、もともと「意味」などないだろう。「意味」はことばが動いたあと、それを追いかけてやってくる。追いかけながら次々に形をかえてゆく。「意味」はあとから生まれるのである。
 犬塚は「意味」をもとめていない。ただ、ことばをもとめている。ふいに、人間の時間を超越して、太古からやってくることばを。そして、それがやってくるまでは、詩を書かないのである。
 2連目。

僕はノートの紙片に書き込んだ
言葉は一篇の詩になろうとして
ノートのなかで身動きしている
もう一度大地がぐらりと揺れて
姉妹のような言葉がくるのを待ちながら
僕は季節の中を歩いて帰ってきた
空きにすったり疲れた夜の
十一月の風が柱に巻きついている

 「言葉は一篇の詩になろうとして/ノートのなかで身動きしている」。そうなのだ。犬塚は詩を書くのではない。ことばが詩になるのだ。みずからの力で詩になるのである。犬塚は、ただその瞬間を待っているのである。「もう一度大地がぐらりと揺れて」というような巨大な時間を待っているのである。

 犬塚のことばを巨大な時間を内包している。魅力的である。しかし、簡単に近づかない方が無難かもしれない。自分がどうなってもかまわないという覚悟をした上で近づいた方がいいかもしれない。一篇の詩を読むのはいい。一冊の詩集はかなり危険である。全集となると、とても危険だ。そうとうな覚悟がいる。
コメント
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